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「八重の桜」 河井継之助 登場!出たガトリング砲!ギャオス内藤、一大決戦!

2013年06月18日 15時13分44秒 | ドラマ

◆左の写真は、クリックすると拡大されてご覧いただけます。

週一、市外にある仕事の関係で朝早く出勤する途中、いつもここを通る。
新潟県長岡市にある栄涼寺(えいりょうじ)だ。
実家からすぐ近くにある。


長岡市栄涼寺と墓地。中越地震で墓の倒壊等があった。現在はほぼ復興している

この寺は、長岡藩・牧野家(出は、愛知県豊川市)の菩提寺という由緒ある寺だ。

自分は子供の頃、この寺の境内や墓場でよく友達と遊んだものだ。
寺の鐘も悪戯で鳴らしたりした。
そういや、墓場でロケット花火をお互いに打ち込んだりしたんだっけ。
罰当たりもいいとこだよな。



同級生の友人もいっぱいこの寺の周辺に住んでいる。
その内の一人は、そこからちょっと歩いた路地の通り沿い、第二次世界大戦の長岡空襲から免れた町内で、昔は足軽長屋だった所に今も住んでいる。
そいつは、長岡藩の足軽の子孫でやたらに厳格な家で見識が高くて、遊びに行くと居間の壁に槍とか刀が掲げられていた。それじゃここんちも祖先は、愛知県豊川市の出なのかなあ。
家の親父もそんなこと言ってたっけ。

たかが足軽だろ。いばんじゃねえよ。と、言ってみたりして。ウヒャーッ!(すまんな友人)
実は、何を隠そう自分もこの通り沿いにある家が実家だが、長岡藩とは何ら関係無い。
明治の頃に祖祖父が土地と建物を購入して住んだらしい。
だから、自分の家の裏庭でも、土を掘ったりして遊んでいると、刀の鍔が出て来たりした。

つまり、この辺も北越戊辰戦争の戦場だったのだろう。
相当の激戦地だったと聞く。
その陣頭指揮を執ったのが、三河武士のを引く長岡藩家老であり、軍事総督の河井継之助かわいつぐのすけである。
そして、この河井総督の墓が、この栄涼寺に建立されているのである。


*朝陽の中の河井継之助の墓。この時は、出勤で急いでいたためそばに行けなかった。かなりの花が供えられている。たぶん、河井継之助のファンの方だろうか。「八重の」に登場したこともあって。自分も物心ついた頃から時々、河井総督の墓に参っている。近いし

子供時代はそんなことも露知らず、この墓場で遊び呆けて無礼な振舞いをしたもんだ。

今、NHK大河ドラマ八重の」が話題であるが、今回、会津藩と同盟軍を組んだ長岡藩の関係から河井継之助がちょこっと出てきたらしい。
自分はついうっかり見逃してしまった。(再放送も)
予告は観たけど、何かスター性が排除されている印象。
まあ確かに会津藩が舞台だからね。しょうがないというか、遠慮しておいた方がいいのかも。
それに、このドラマ化の経緯は、東日本大震災からの復興(NHKと政府の配慮)の意味があると感じてる。
特に福島原発によって現在も放射能、放射性物質に苦しめられている関東(NHKと政府も含まれんのか…何だかなあ)、北関東、福島県、東北地域に対して。(だから、越後長岡藩等の北越戊辰戦争方面は描かれなかったていうことでしょう

今、長岡市には、放射能被害から古里を追われた福島県の市民が止むに止まれず避難している
酷いよなあ東電政府。何を考えているやら。
知恵を絞って、元の古里に何とか戻れるようにしてあげなきゃだめだろ。
古里が無くなるというのは、凄く辛いことなんだよ。分かんねえのか!!
赤ちゃんとか小さいお子さんもいるんだぞ!バッキャロめ!!!

ほんで、人づてに聞いたら、その回には、長岡藩が保持していた二門のガトリング砲も出てきたんだって。
これって今でいう核武装と同様の脅威(戦略)を小国の越後長岡藩、つまり、河井継之助が企図したということでしょ。それはそれで凄いよね。その斬新な発想って。
ほんとに使えたのどうか知らないけど、お飾りでもそれなりの脅威にはなるもんだろうね。
だから、戦争ってのは、アナログでいかにデジタルを騙すかという方法も考えなくちゃいけないんじゃないか。
経費も相当浮くし。
段ボールの張りぼてでもいいんだよ精巧ならば。
それから、後の同じ長岡市出身山本五十六元帥の航空機推進論櫻井よしこの空母推進論は、この河井総督の戦略から導かれてんじゃないだろうかね。

但し、この機関砲、アメリカの南北戦争の時のバッタモン、中古品だったらしい。
それを日本に売りつけてやるかと持ってきた訳だ。商人のスネルがね。(確か昨年、長岡市の米百俵祭り時代行列に、そのスネルの子孫の方が来られて出演していたんだよ)
その辺のビジネス感覚は、やっぱり抜け目ないぜ欧米人の野郎は。
もしかしてユダヤ系スイス人なのかなあ。
知らんけどさ。
この姑息な、ある意味悪徳な商法って今でも変わらんでしょ。
例えば、米軍の兵器の自衛隊への払下げとかさ。
ほんで、未だにこのガトリング砲がどこに消えたか謎のままなんだよね。

そうだ、このブログ名にある塵壺は、河井継之助の日本の太平洋側諸国の旅日記塵壺(ちりつぼ)からいただいてんだ。
塵壺って今でいうごみ箱ダストボックスだから。
旅の恥はかき捨てみたいなことから浮かんだのか知らないけどさ、日記なんかという高尚なものじゃなく、雑な繰り言というか、掃いて捨てるぐらいなメモ、ごみのようなもんだというのを意味してんだよきっと。
だから、この実物を見てみると、正に殴り書きの下手くそな字で思ったことをザアーっと書いてるだけのもんだからね。(俺もそういうスタイルで気ままにブログを書いてるつもり。ありがと河井総督!)
新潟県長岡市長岡市立中央図書館に問い合わせれば、快くこの河井継之助の日記「塵壺ちりつぼ現物を見せてくれるよ。


長岡市立中央図書館

でもこの「塵壺」に書かれているのは、入念な視察なんだよね。当時(幕末)の企業、行政、外国状勢のさ。

それにしても昔の人達は凄い。歩いて新潟県長岡市から苗場の三国峠を越えて、江戸(東京)に行き、河井総督はそっからさらに備中・岡山県高梁市、そして、九州の長崎まで歩いて、また戻ってきたというんだから。尋常じゃない。
見習わんばらこっての、おめさん。このパワー!!
でも、そういう風に視察ということならば、胸高鳴って旅したんだろうなあ。
疲れなんて感じないぐらいワクワクして。生きてるぅーってやつだよ。

この河井総督って、ほんと発想(アイディア)力も大したもんだけど、それに加えて日記を塵壺なんてネーミングするとは、ユーモアセンスにも溢れて
だから、瀕死の状態で戸板に乗せられて、会津に向けて八十里越えをする時に、
「八十里 腰抜け武士の 越す峠」
なんていう自嘲めいた川柳的な句を詠めるんだよ。
普通ならもう死ぬかもしれないという時に、そんな風に自分自身を客観視する余裕なんかあるのかと思うけど。
腰抜け武士というのは、越(越後)を抜ける武士というジョークにもなっているという訳。
また、越す峠の峠には、三国峠への思いもあったんじゃないだろうか。
江戸(東京)に向かって意気揚々と夢と希望を抱いて超えた三国峠。
絶望と惨めな思いで超える八十里越え。
そんな真逆な峠の運命の皮肉。悔しさ。
人の一生は重いね。

そういや、かのジョン・レノンが言ってただけど、「いつでも、どんな時もユーモアを忘れずにね」という言葉が浮かんできた。

スゲエなあ~後世に残る偉人の言葉って。
生きてる。
正に、これぞクリエイターだよね!!


あっ、それで、薩長側の<stron><strongg>時山直八長州藩・猛将)がこの北越戊辰戦争の越後長岡の激戦で戦死し、その死を悼み、参謀の山縣有朋が、長岡市の東山の森立もったてで戦中に詠んだ短歌がこれまた素晴らしく、身に染み入って来るような名歌になってるんですよ。
「あだまもる 砦のかがり 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風 」
(敵・長岡藩兵が守っている砦の篝火もその姿の影も消え、夜も更けて~)
ねっ凄いでしょ。イメージがぐわーっと湧いてくるというか。
何かジーンと感動するんですよね。かっこいい。
芸術家ですよ。
戦下でこんな短歌を詠めるなんて。
この言葉の中からは、長岡藩との攻防が激戦に陥いり、夏なのに身は張りつめて寒気が襲うほど山肌の風が堪えるという、つまり、厳しい戦況であるとい心境も伺い知れるんですよ。
この短歌が刻まれた碑が森立峠にあるんですよね。


河井継之助の墓の裏手に見えるのが上越新幹線の高架橋。その下にはJR東日本・信越線が走っている。線路の向こうが長岡市稽古町である

さあ、そんで、ギャオス内藤監督率いる新潟アルビレックスベースボールクラブ 対 群馬ダイヤモンドペガサスの試合が、上越市の高田公園野球場で先日あった。

前期優勝への一大決戦!!越後が勝つか、上州が勝つか
軍配はどちらに?その報告は後ほどこのブログで。


おお、ギャオ公様~ いざ、出陣じゃ!! はははあ~ 殿に付いて参りまするう~!!

高田と言えば、上杉謙信!!春日山城ですからね!!

「第一義」だ!!

自分の卒業した新潟県長岡市の栖吉川のほとりにある長岡市立川崎小学校にもこの言葉が額に入れられていたという。あとで親父に聞かされた。
これは、一つに越後の理念なんだろうな。
卑怯な姑息な真似をするな。何事も一にも二にも義を、筋を通せ。死しても守れということ。
そう、河井継之助が徳川幕府や会津藩への忠義・恩義を守り通したのもこういう精神が根底にあるんだよたぶん。
これを守らないと世の中の秩序が乱れ、全てにおいて精神性が崩壊していくということなのじゃないか。

それで、新潟県長岡市は、謙信の母の虎御前に始まり、栖吉城、栃尾城、上杉謙信(幼少期~青年期)、乙吉城、鬼小島弥太郎、龍穏院、河田長親、与板城、直江兼続、お船、堀直寄等、戦国時代からの城下町でもあるんだよね。

因みに家の親父の実家が、与板や芹川城があった場所の近くに現在も住む○○○という家。親父の話によると実家の蔵の中で、長持ちの奥深くに、なぜか刀がしまわれていたのを見たと言っていた。
そこのおじさんは、剣道の上段を持つ超凄腕。うちの親父もやたらに規律正しくて頭がよくて、書道教室が開ける上段を持ってる。詩吟に興じるってのも何かなあ。まあ、でも関係ないか…。

また、自分の家の実家の近所に個人病院の○○○医院というのがあって、ここが古志長尾氏の家系で有名で、家の婆様やおふくろがよく○○様とか言って一目置いてて、懸りつけ医にしていたんだよ。
確かに品と威厳があったね。
今でもそう。
何か診療に行くと、平伏してしまうような気持ちになる。

それと、ツンとした美人で、スゲエ頭のいい○○という同級生の女がこの界隈にいて、やっぱり、祖先が武家の出らしく、藩医をしていたとかと、家の婆様がよく言ってた。
その家がまた格調高いレトロな雰囲気の家でさあ。金持だったんだろうなあ。
まさかあの堀直寄の関係だったんじゃないよな。

何かすげえよなあ。考えてみると。
自分の実家周辺とか、この
新潟県長岡市って。
歴史が奥深いというか。

だから、面白いんだよね。神秘的で。


クロォン ブゥタケヨォ! アン二ョォ~ン!


平成25年6月18日
コメント
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