ふるさと!-秋田仙北平野を歩く-

ふるさと秋田の「仙北平野」をくまなく巡り歩き、その写真とエッセイを掲載します。

★旧太田町横沢・長信田を往く-3⑧(終)

2025年02月21日 | 旧太田町を往く

<歩いたところのS23年の航空写真>

●歩いた日:2025年1月12日(日)

●歩いた所

 ・三本扇(横 沢):篠沢、葛堀、高花、上川原

 ・中 里(横 沢):二十町

 ・横 沢(横 沢):平内清水、堀ノ内、泥窪

 ・川 口(長信田):千本野、下千本野、松葉尻、田屋野、清水川尻
 
●歩いたログ(足跡)(道のり6.8km)

(以上の地図:国土地理院地図に加筆)

 最後にS23年の写真。

 だいぶ見づらいが、じっと眺めているとだんだんわかってくるので楽しくなる。

 左端に「県道11号」、下端に「県道305」が走る。中段から下段にかけて「川口川」と「真昼川」が写る。「川口川」が大きく蛇行しているのに対し、「真昼川」はすでに改修されたような流れになっている。

 橙色の線が今回歩いた道の一部で、ピンク色の線は今回歩いた道のうち、当時は道がなかった部分である。

 この写真で最も目に付くのは、前回の「旧太田町横沢を往く-4」と同様、「県道11号」の東側に広大な森林原野や畑地が広がっていることである。S51年の写真で見たように、この森林原野や畑地はことごとく田んぼに生まれ変わっている。これは「田沢疎水幹線用水路」が開削され、豊富な農業用水が確保できるようになったことによるものであるが、その幹線用水路が右端に写っている。

 調べると、国による「田沢疎水開墾事業」がスタートしたのはS12年である。戦争によって事業の進捗が大幅に遅れ、S23年頃には幹線用水路がようやく完成したという状況で、肝心の開墾(開田)にはまだ着手されていなかったことがわかる。

 ただ、右上の方、南北にまっすぐ延びる道沿いに何軒もの家屋が立ち並んでおり、道の東側一帯の広い範囲が、小さな長方形に区割りされた畑になっている。これは近い将来に開田されることを見越してすでに入植が行われ、入植者は、当面の生計を維持するため畑作を行っていたことを示していると考えられる。

 ところで、これからまた、少し話が長くなるが・・・。

 現在の「横沢公園」の南東から南側にかけて、田んぼが広がっているのが見える。森林原野や畑地が広がる中、なぜここだけ開田できたのだろうか?、ここへの用水は?・・・、などどと考えていると、田んぼのすぐ東側、入植者の住宅が建ち並ぶ道の西側に、道と並行して帯状に水路の痕跡のようなもの(青の➡で示した)が見える。

 ここでひょっと思い出したのが、「旧太田町横沢・長信田を往く」(2017.9.22~掲載)を歩いた時に、ここからすぐ北で「御堰(オセキ)跡」の標柱に出会ったことである。

 その場所は次の地図のとおり。


 
 入植者の住宅が建ち並ぶ道を少し北に行き、「窪関川」を越えてすぐの「新田(ニイダ)」と、さらにその北の「新田熊野堂」の二か所である。

 その標柱の説明書きによると、「御堰」とは、開田のために佐竹藩が開削したもので、「白岩広久内(旧角館町)」(「玉川」から取水)」から「六郷野荒町」までの31kmに及ぶ水路とのこと。天保4年(1833年)に7年の歳月をかけて完工したが、明治11年(1878年)の洪水で崩壊しその後荒廃した、とある。

 1833年というと江戸時代末期で、藩の財政事情も相当厳しい中での大工事であったと思われるが、技術的に未熟だったこともあって50年足らずで利用できなくなってしまったことになる。

 荒廃したといっても、標柱が立つところにはその痕跡があるということなので、S23年当時はまだ水路跡が残っているかもしれないと思いながら、標柱が立つ辺りのS23年の写真を見てみる。


 中段に「窪関川」。南北に走る道筋は、「新田熊野堂」付近では現在と少し異なっているが、緑の「★」で示したところが現在標柱が立てられている位置。この位置を参考に、「御堰」の跡ではないかと思われる痕跡が青の「➡」で指したところ。これを南にたどっていくと、前述した田んぼ東側の帯状の文様につながる。

 ただ、S23年当時、かつての「御堰」に水が流れていたとは考えにくい。しからば、件の田んぼの水はどこから引いたのだろうか。ここでさらに想像をたくましくすれば、「横沢公園」の中にはかなり大きな池があり、S23年の写真にも、よく見ると池のように見える一画がある。これは湧水のため池で、この水を引いたのでは・・・?。

 S23年写真の「御堰」の痕跡、ため池に関する想像は、間違っているかもしれないので悪しからず。

 最後にもう一つ。大仙市大曲」にある「田沢疎水土地改良区」のHPに、「田沢疎水」と「御堰」の歴史に関する「報文」が掲載されている。それには、「御堰」は「田沢疎水幹線用水路」の500m程西側、標高で10m程度低いところを走っていた、とある。

 このことを念頭に、もう一度、歩いたところのS23年の写真を見ると・・・。

 「川口川」の南側、今回歩いた道筋と交差するように帯状の文様がある(青の「➡」で指したところ)。「田沢疎水幹線用水路」とほぼ並行して走っており、両者の間隔をログ地図で測ってみると500m程なので、これも「御堰」の跡ではないか??・・・・。

(終わり)

●これまで掲載したログ(足跡)の累計(累計の道のり:700.7km)

 累計の道のりが700kmを超えました。まだしばらくの間は「仙北平野」歩きを続けます。

 次回は、先日、この冬初めて「歩くスキー」で散策してきましたので、その様子を投稿したいと思います。


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