<「大仙市花館」の「川を渡る梵天」>
いよいよ渡し場の岸を離れて対岸に向かいます。
二人で川に張られロープを手繰っております。後ろには竿を持った人のほか、小さな船外機を付けているのでそれを操縦する人がおります。帰りの舟のスピードがずいぶん速いなと思ったら、小さな船外機でも空の舟は簡単に動かせるようでした。
最初の舟が渡る最中に花火が打ち上げられました。
雲にとけこんで見づらいですが、色のついた煙の昼花火です。梵天は対岸に着くと、写真に写る堤防上の道を進み、右奥の小高い「姫神公園」の裏を回って、中央に頭をのぞかせている「伊豆山」に向かいます。
最初の舟が対岸に着いて舟から堤防上に向かって歩き始めました。
余談になりますが、「地名への・・」で「玉川」の北(右岸)にある「間倉」の項をみると、M13年までは「間倉」の人たちは梵天を奉納するために3回(「玉川」、「大戸川」、「雄物川」)も川を渡っていた、とあります。「花館の歴史」を読むと、「玉川」(大渡し)と「大戸川」(小渡し)(「玉川」のすぐ南にある小さな川。現在の「玉川橋」は両川にかかる)に二つの橋が架けられたのは、M14年の「明治天皇」の御巡幸に先立つM13年のこととある。ちなみに、二つの橋を一本の「玉川橋」に架け替えられたのはM22年で、日本一長い木橋として話題を呼んだともあります。
広場には「川を渡る梵天」に関する展示がありました。由来を書いたものです。
昔の写真もありました。
写真の写真で不鮮明ですが、左側は渡し場の風景で、中段の写真はストーブのある冬場の待合室のようです。真ん中と右側は梵天の風景です。真ん中上段の、神社本殿に入る直前の写真では、急な坂を滑らないようにとのことでしょうか、藁沓を履いた人が何人かおります。右側中段は3つの梵天が舟に乗った写真ですが、説明書きには「現在は馬舟がないので一回に三本の梵天が乗ることなない」とあります。
ほかにも昔の写真が展示してありました。
何番目かの舟には3本の梵天が乗りました。二艘繋いであるので乗れます。
「大仙市役所」からも梵天が奉納されたこともあって、冒頭のあいさつに来ていた市長さんに舟の中から「市長も乗れ!」との声がかかり、最初はためらっていた市長さんでしたが、何度も声がかかるので乗り込みました。
最後にまた余談になります。
渡し場のすぐ上流(南)に「大曲大橋」がかかったのはS52年で、ここ、「蛭川渡船場」が閉じたのはS53年のようです。ということで改めてS51年の航空写真を見てみました。
よく見ると、川のなかに舟らしきものが写っているではありませんか。渡し船かどうかはわかりませんが、うれしくなりました。渡船場の両岸の道もはっきり写っております。
下端には工事中の「大曲大橋」が写っております。
上端には新旧2本の「玉川橋」の一部がのぞいており、左手の古い橋のたもとに昔懐かしい「万兵エ茶屋」が見えます。茶屋の左上にある細い筋が「大戸川」(S23年の写真にはもっと広い川筋がはっきり写っている)で、「小渡し」のおよその場所を示してみました。「花館」の街中の通り、旧「羽州街道」の道筋の延長線上に当たる「大戸川」のほとりには今、「小渡し渡船場跡」の標柱が立っています(過去のブログ「★歩くスキーで春を探す」(H17.3.16から掲載)に登場)。
(終わり)
時期は覚えていませんが、川の氾濫で流されたと記憶しておりますが、あっておりますでしょうか。
私のブログがどなたかの思い出に繋がることができたことをうれしく思います。手元に花館の歴史や古い航空写真があります。それらで茶屋のことをもう少し調べ、近いうちにその結果をブログに掲載したいと思いますので、ぜひご覧ください。