<「明田地」の風景>
●歩いた日:2021年5月16日(日)
●歩いた所
・六郷東根:南紀の国、上中村、下中村、北明田地、東明田地
・金沢(旧仙南村):西明田地
●歩いたログ(足跡)(道のり4.3km)
(以上の地図:国土地理院)
神社(「明田地神明社」)から引き返して集落の中を進み、「六郷」の街から延びる道との十字路のすぐ手前で振り返る。
📷05:「北明田地」の風景
ここ「明田地」の集落は、「六郷」の街から延びる道の北側は「北明田地」と「東明田地」、南側が「西明田地」である。大字を調べると、「北明田地」と「東明田地」は「六郷東根」、「西明田地」は「金沢」となっているので、「六郷」の街から延びる道が旧「六郷町」と「仙南村」の境だったようだ。
「北明田地」側の角に、ふわふわした白い花をいっぱい着けた大きな立つ。調べると、こうした花を総状花序という、とある。葉の着き方などを見ると「ウワミズザクラ(上溝桜)」のようだ。バラ科サクラ属の木だが、いわゆる桜とは異なる面白い花である。
十字路を横断したところで東を望む。
(「明田地」の一角)
「ここは明田地です」の案内板がかかる。
まっすぐ延びる道の左手は、手前が「北明田地」で奥(東)の方が「東明田地」。右手が「西明田地」。
ログ地図を見ると、「明田地」は道でほぼ真四角に区切られた中に家が建つ。後で昔の航空写真を見てもらうとよく分かるが、ここは開拓地として計画的につくられた集落である。
十字路から南に向かい、左折して集落の外縁を東に進む。
📷06:「西明田地」の風景
畑や田んぼの中にゆったりと家が建つ。前掲写真ともども開拓地の風情が感じられる。
写真の道を奥に向かい、再び集落を貫く道に出、東に進む。
道脇に石碑が建つ。
📷07:「佐藤 章」の石碑
石碑には「郷土の先人 佐藤 章 郷土訪問飛行機発着の地」と刻まれている。
調べると、「佐藤 章」は大正時代に活躍した民間飛行家の草分け、とある。M27年(1894年)に「金沢西根村下菻沢(ガツギザワ)」(旧「仙南村」)に生まれている。「下菻沢」は「明田地」から6km程西、「奥羽本線 飯詰駅」のすぐ南である。数々の飛行記録を打ち立て、名実ともに日本一の民間飛行家と呼ばれるに至った「佐藤 章」が、この地で郷土訪問飛行を行ったのはT8年(1919年)11月である。
機体は貨車で飯詰駅に輸送された、とあり、「明田地野飛行場」は6万人の人垣で埋まった、ともある。「明田地野飛行場」とあるが、当時、正規の飛行場がここにあったはずはない。ただ、簡単な整備を行えば飛行機が離発着できる原野が広がっていたのだろう。終戦間際に新たな飛行場建設の場所とし、陸軍がこの地を選んだのも頷ける。
ところで、デモ?飛行といえば、「★旧神岡町北楢岡を往く」(ブログ掲載:2018年9月21日~)で訪れた「北楢岡飛行場」跡のことを思い出す。いつ飛行機を飛ばしたか、改めて記事を確認するとT9年秋となっているので、「佐藤 章」が「明田地」で飛んだ1年後である。「北楢岡飛行場」は陸軍が行ったものなので、「秋田・仙北郡」で民間と軍が相次いでデモ飛行を行ったことになる。
奥の敷地にある古い建物には、入口のところに「明田地会館」の看板がかかるが、だいぶ傷んでおり、現在使われているようには見えない。
(その4に続く)
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