<「六郷東根東紀の国」付近の「県道12号」>
●歩いた日:2019年11月13日(水)
●歩いた所
・六郷東根:東紀の国、南紀の国、下中村、上中村、鎧ケ崎、上田の尻、下田の尻、一ツ屋、蛇沢
●歩いたログ(足跡)(道のり7.6km)
(以上の地図:国土地理院)
(📷023のところから)県道に引き返し、車を置いた場所にだいぶ近づいたところで行く手にカメラを向ける。
📷024:再び「東紀の国」付近の「県道12号」
道奥の大きな木立の下が車を置いた場所。スタートして手前に進み、中央に写る木立下の垣根沿いを左手に向かった。左端に📷001に写る、二本の石柱が見える。
あまりにもいい天気なので、車に戻る前にもう一度「真昼岳」を眺めたいと思い、すぐ先の十字路を右折して田んぼ中に出、カメラを向ける。
(「東紀の国」から「真昼岳」を望む)
冬を迎える前の清々しい農村風景である。左手奥が「真昼岳」。かすかに見える頂上小屋をアップしてみる。
(「真昼岳」の頂上小屋)
小屋がくっきり写る。こんな日に頂上から「仙北平野」を眺められたら最高だ。
少しうれしい気持ちになりながら県道に引き返し、車に到着。
戻って見ると、車の上やフロントガラスなどに何やらいっぱい付いていて、非常に汚くなっている。よく見る鳥のフンのようだ。木立に鳥がたくさん集まり、フンを落としたらしい。フンは車の塗料に悪いし、乾くと洗い落とすのに難儀する。家に帰ってすぐ水洗いする。木の下に車を停めるのはNGのようだ。
最後に例のように航空写真をご覧いただく。今回歩いたところもH28年の写真があったのでそれから。
(H28年)
南北に長く歩いたので、縦長の写真になってしまった。スクロールしながらご覧いただきたい。
上部左寄り、「県道12号」と「田沢疎水」が交差する脇の道沿いが車を置いた場所(「P」)で、歩いた道筋(ログ)を黄色線でなぞってみた。途中、立ち寄ったり印象に残った主な場所を書き入れた。
左上、石柱が建っている場所の奥は、木に囲まれた大きな屋敷になっている。石柱はこの家の門柱であると思われる。
上部の真ん中辺りに「小西家の松」がある(拡大しないと見えないが)。調べると、終戦間際に陸軍が造ろうとした「六郷飛行場」の滑走路は、写真の野球場辺りから南南西の方向に細長く延びている。その延長線上に「小西家の松」が位置していたことから、上部が切り落とされたことがわかる。
上部右寄りに「円型分水工」の丸い形がはっきりと写り、さらにその右手(東寄り)にある頭首工を拡大して見ると、階段状の魚道も確認できる。
分水工の南に、閉校になった「六郷東根小学校」が見え、校舎の北側にあった正門脇の大きな木も写る。
ところで、学校跡のところから県道に向かう道(黄色線)は、校舎の東脇を通ってまっすぐ北に向かっているが、この後のS51年の写真を見ると、この道は後で付け替えられた道のようだ。以前の道は、校舎の角で正門の方(西)に折れ、正門脇の大きな木のところから分水工の方(北)に向かって県道に出ていたことがわかる。
山の裾を縫うように「みづほの里ロード」が南北に走る。その道に出た角にある「蛇沢」の家屋に留意しておいていただきたい。
黄色に紅葉していた大木、笠松も確認できる。
「一ツ屋」の風景に写っていた、屋根の上に突き出た切り株のところには、枝を大きく広げた大木が写っている。
今回歩いたところではないが、野球場の南の田んぼ中に、縦横の直線道路できちんと区画された集落が見える。かつて「明田地野」の呼ばれた原野を開拓するために入植した家々が集まる場所のようだ。この辺りが原野だったからこそ、飛行場建設の場所に選ばれたということである。
(その9に続く)
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