<「川添」・「境田」の家並を望む>
●歩いた日:2022年4月6日(水)
●歩いた所
・高 梨:上高梨、繁昌、一ノ坪
・払 田:境田、高柳
・上野田:道添、中村、上添、道合、川端、四十八
・安城寺(旧千畑村畑屋):切上、竹花
●歩いた位置
●歩いたログ(足跡)(道のり6.2km)
(以上の地図:国土地理院)
*** (その1)を掲載してそのまま中断してしまい、歩いたのが春先にもかかわらず、季節はもう初夏になってしまいました。遅まきながら(その2)と続けていきますので、ご了承願います。 ***
(📷003の地点から)さらに東に進み、突き当たったところで左折して「丸子川」に架かる橋のたもとに至る。そこでまた来た道を振り返る。
📸004:「高柳」から南を望む
右手に白い外壁の家が見える。その家のすぐ手前を通る道を右手から来て、突き当りを左折して来たところ。
私が立っている橋のたもと(家が一軒ある)は「高柳」、写真の家々「境田」で、いずれも大字(明治の立村・合併以前の村)は「払田」である。ログ地図を見て分かるように、「丸子川」の北側に位置する「払田」の地域が、この辺りでは川に南側に突き出ている形になっている。昔々の村は川(ここでは「丸子川」)を境にしていたと考えられるので、かつての「丸子川」はこの辺りでは蛇行してもっと南側(「境田」の南)を流れていたと思われる。
橋のたもとから引き返して南に進み、写真の「境田」の家々を過ぎたところで振り返る。
📸005:「境田」の一角
集落の一角に小さな社がある。
「境田」のこの辺りには中世の城(館?)、「境田城」があったという。ただ、城の遺構などは残っておらず、従って正確な位置も特定されていないようだ。「豊臣秀吉」の奥州仕置によって廃城になったとのことである。
社の脇を少しだけ引き返して右折し、田んぼ中をまっすぐ延びる道を東に向かう。道が右に折れる角の田んぼ中に小さな墓地があり、白い標柱が建つ。
📸006:「川添」の一角
「春日大明神社」と書かれた「菅江真澄の道」の標柱である。「真澄」がここを訪れた時(文政11年=1828年)はここに社があったのであろう。標柱裏の説明には、「川の岸こぼれて(洪水で崩れて)、今、此の神地を定め・・」とあるので、ここに神社が引っ越ししてきたようだが、その後またどこかに移転したので、ここも神社跡のようになったのだろうか。
標柱のところから南に進み、広い屋敷に建つ大きな家々の脇をカギ型に折れて、さらに南にしばらく行くと、突き当りに集落会館がある。その前で振り返る。
📸007:「川添」・「境田」の家並を望む
先ほど通り過ぎて来た道奥の家々は「川添」。「丸子川」に因む地名だろう。
左手奥に見える杉木立が城跡とされる「境田」の一角。
集落会館はだいぶ古くなっている(エアコンは付けてある)ようだ。
(「上野田」の集落会館)
入口に「上野田担い手センター」の看板がかかる。「上野田」は「コウズケダ」である。「地名への・・」には、「上野国」とは関係なく、「コウ」は「上・高」、「ツケ」は「塚・ツゲで台地の端」、「ダ」は「場所」で、台地や微高地を開墾した場所、とある。
なお、「上野田」は、「払田」と同様、「大仙市」の大字(明治の立村・合併以前の村)である。
農村の若い後継者確保を意識した「担い手センター」なので、会館の前には遊具を置いた広い遊び場を設けてあるが、使われているようには見えない。農村はどこも少子化で、小学校の統合が相次いでいる。
(その3に続く)
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