●歩いた日:2018年12月21日(金)
●歩いた所
・本堂城回:城方小屋、百目木、道尻、館間、北館、田町
・土崎 :厨川谷地、北小屋、厨川
・払田(旧仙北町高梨):念仏谷地、大谷地
・板見内(旧仙北町横堀):百目木、千刈田
●歩いたログ(足跡)(道のり6.3km)
(以上の地図:国土地理院)
次にS51年の航空写真で、歩いた範囲の南の部分。
(S51年-1)
些細なことだが、車を止めた位置の道(黄色線)がS23年と異なってまっすぐになっている。この部分をよく見ると、道と川の間に以前の道路敷地であったと思われる草の生えた細長い空地がある。今はこの空地も待避所のように舗装されて、車を止めることができるスペースができたようだ。
次に北の部分。
(S51年-2)
「矢島川」がすっきりと改修されている。「百目木」の集落内のかつての川筋(境界)を水色線で描いてみた。
「本堂城跡」はやはり畑のようである。ただ周りが帯状に囲まれているような地形になっていることがわかる。帯状の部分は、前に掲げた「本堂城跡」の写真からわかるように、やや小高くなっている内館跡より一段低くなっている。内堀の跡である。
ところでS23年とS51年の写真を比較すると、田んぼの区画の大きさが全く同じである。おそらく10a区画と思われる。S51年頃は稲刈り機械のコンバインが急速に普及した時期で、写真にもコンバインで収穫した跡がかなり見られる。コンバインが普及すると10a区画では非常の効率が悪いので、この後早い時期に再区画整理が行われたと思われる。
一方写真をよく見ると、バインダー(稲を刈って束ねる機械)あるいは手刈りした田んぼ(藁を田んぼにまき散らかさないため土の色が出ていて、田んぼの中で稲を杭に架けたり逆さにして列状に並べて乾燥させているところ)も、「本堂城跡」に向かう道の両側や一軒家の南の方などにまだ残っているようである。
(終わり)
●ブログに掲載したログの累計(累計の道のり:372.9km)
次回からは、しばらくぶりに「旧中仙町」の「清水」を歩いた記事を掲載する予定です。が、その前に「折々のメモ」の記事を投稿するかも知れません。
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