よって、そのことを記事にしてみたいと思う。まず、今回採り上げたいのは、全10章ある本文の「袈裟功徳分第一」の一節である。
かゝれば不思量現の方袍は親証の好人に属し、無作相得の法服は、妙応の霊神を感ず、
曽て僧あり、雲州杵築の神祠に宿す、夢に神告て云く、吾ために雲樹和尚の戒法并に僧伽梨を求めよ、僧以て告ぐ、雲樹乃大社に詣し説戒し、衣を付授せり、其衣現今社中に存在せり、
また宇佐八幡は……
『洞上法服格正』4丁表、カナをかなにするなど見易く改める
まずは、以上の内容を見ていただき、続いて以下の一節をご覧いただきたい。
かかれば不思量現の方袍は親証の好人に属し、無作相得の法服は、妙応の霊神を感ず、〈以下、割注は省略〉
曽て由良の法灯、入宋して天台山石橋の畔に於て、一童子より藕絲の袈裟を得らる、童子はこれ文殊の応現なり、帰朝して勢廟に詣する因み、皇太神巫に託して藕絲の衣を乞る、法灯これを廟中に納む、後勢州浅香浄眼寺開山玄虎の室に峩冠の神人来て云く、我是皇太神なり、師に随て金剛宝戒を受んと、虎説戒し羯磨し了る、神人藕絲の袈裟を嚫物とす、現に今浄眼寺の什宝とせり、
また宇佐八幡は……
『法服格正』、『続曹洞宗全書』「清規」巻・641頁下段~642頁上段、カナをかなにするなど見易く改める
以上の通りである。すると、段落として2段目の内容が全く異なっていることに気付くと思う。なお、両者の違いがあること自体は、川口先生『法服格正の研究』でも、訳注の注記で指摘されている(18頁)。そこで、違いがあることは分かったのだが、色々と調べると、『続曹全』本の底本は、黙室禅師の親筆本を、昭和12年に東京・泉岳寺山内の「道元禅師鑽仰会」で影印本として印刷した本である。そうなると、黙室禅師の親筆は、由良(現在の和歌山県日高郡由良町)の興国寺開山・心地覚心禅師(法灯国師)が、勢廟(伊勢神宮のこと)に納めた藕絲(蓮の繊維で紡がれた糸)の袈裟についての話となっている。この袈裟は、皇太神(天照大神)が曹洞宗の浄眼寺開山・大空玄虎禅師から受戒した際に、大空禅師への布施としたという。
つまり、元々の伊勢神宮に掛かる話が、『洞上法服格正』だと、出雲大社の話になってしまっていることになる。この改変についてだが、川口先生の先行研究に基づいて考えると、そもそも、『法服格正』には、黙室禅師の「親筆本系統」と、西有禅師開版の「洞上本系統」と、後に合揉された「集成本系統」とがあるという。
そこで、『洞上法服格正』の「序」で西有禅師は、ご自身に本書の開版流布などを命じた月湛全龍禅師(?~1865)が、本文の添削を行って「改竄」したという表現をされている。「改竄」って、余り良い意味では無いと思うのだが、この辺はどうなのだろうか?どちらにしろ、西有禅師の記述に従えば、当初の黙室禅師の見解を、月湛禅師が改めたと理解すべきなのだろう。
そこで、ちょっと気になったのが、両本の違いは、伊勢神宮と杵築大社(今の出雲大社)の位置付けの違いである。とはいえ、月湛禅師に係るとなると、まだ江戸時代だから、神仏分離による廃仏毀釈も起きていない。もし、その後となると、伊勢神宮と仏教の関係性を論じること自体、憚られた可能性がある。
或いは、それを見越して、敢えて西有禅師が変更されたのかもしれない(ただし、西有禅師御自身は、自身による改変を否定している)。とはいえ、「洞上本系統」の説話の内容は、ちょっと何を言っているのか分からない。その意味では、本来の「親筆本系統」の方が遥かに分かりやすいし、この話は江戸時代以降、度々各種文献に登場する。しかも、黙室禅師は尾張名古屋で活動されており、地域の関係から隣国伊勢の説話を入れることに違和感は無い。
その意味では、やはり「洞上本系統」の改変には強い違和感を覚えたが、残念ながら直接の改変の動機などは知られなかった。
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