1つは、「嘉禎三季丁酉結制日、撰之」という奥書がある『出家略作法』である。嘉禎3年というのは、西暦で1237年のことだから、道元禅師がまだ京都深草の興聖寺におられた頃の執筆であったと推定される。
2つは、「大宋宝慶元年九月十八日」に、如浄禅師から道元禅師が授けられた受戒作法である。
3つは、年月不記ではあるが、『正法眼蔵』「受戒」巻である。
さて、これらは全て十六条戒といいたいところだが、最初の『出家略作法』については、在家五戒と沙弥十戒が入っているので、外見的には「十六条戒」とは言い切れない。とはいえ、一応、同書でも「此の中、十六条事有り。三帰・三聚・十重なり。此の十六条戒、今身より仏身に至るまで、能く持つや否や〈三問三答〉」とあって、「十六条戒」は意識されている。
よって、この辺がとても難しくなると思っていたのだが、一方でこの辺の問題に腹落ちすることがあった。それは、『梵網経』との関連である。中国に於ける菩薩戒の根本聖典といえば、『梵網菩薩戒経』であると見て間違いはないし、日本でもそれは同様である。それで、同経に説かれる「衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る(云々)」という語句について、導入されているかどうかの問題と、導入されているとすればどの辺かという問題があると認識したのである。
以下に簡潔に答えを示す。
1つ目の『出家略作法』だが、「衆生受仏戒」云々はない。
2つ目の『仏祖正伝菩薩戒作法』だが、「衆生受仏戒」云々は十六条戒の授与が終わって、受者を蓮華台に載せて、その周囲を戒師・教授師が遶匝する際に唱えている。
3つ目の『正法眼蔵』「受戒」巻は、一切見えない。
以上の結果から、『仏祖正伝菩薩戒作法』の特徴とは、『梵網経』の偈の一節である「衆生受仏戒」(云々)を儀礼中に採り入れたことではないかと思うようになった。具体的には、以下の一節のように用いられている。
受者、衣袖を収めて著椅し、跏趺して坐し、合掌黙然す。
次に和尚、唱えて云く、「衆生受仏戒、即入諸仏位。位同大覚已、是真諸仏子」と、一遍唱え了りて、又た「衆生受仏戒」の一句を唱う。因みに曲身問訊し、右に転身して椅子を右遶すること三匝の間、此の偈を誦す〈宋音〉。
『仏祖正伝菩薩戒作法』「受者蓮華台に上る」
この一節の特異な点は2点ある。
1:十六条戒を授け終わってから、この儀式がある。
2:「衆生受仏戒」を唱えるのは宋音。
それで、実はこの2点について、後者については中国由来の菩薩戒作法には、一切確認出来ないことである。湛然の『授菩薩戒儀』には、そもそもこの一節を唱えることはなく、慧思の『受菩薩戒儀』にはこの一節が見えるが、それは菩薩戒の意義を説く冒頭(後の作法書では「第一開導」と呼ばれる部分)に見えるのみで、儀礼中に導入されていないのである。
また、「宋音」という指示については、意外な文献に或る指示が見える。
焼香合掌。
梵讃偈〈宋音〉、入正覚壇、
衆生受仏戒、即入諸仏位。(シウサンシンフカイ、スシンシフイ)
位同大覚已、真是諸仏子。(イフタイカイ、シンシシフス)
『浄土宗全書』続九巻「授菩薩戒儀則(黒谷古本)」
以上であるが、ここで、『梵網経』の「衆生受仏戒」偈について、「宋音」でと謳っているのである。この浄土宗の「黒谷古本」については以前から別のことで注目していた。以下の一節である。
第一不快意殺生命戒、諸仏の護持する所、曩祖の伝来する所なり。我今汝等に授く。汝等、今身より尽未来際、其の中間に於いて、犯することを得ざれ。能く持つや否や。
同上
非常に些細なことだとは思うのだが、この「黒谷古本」で注目するとすれば、「諸仏の護持する所、曩祖の伝来する所なり。我今汝等に授く。汝等、今身より尽未来際、其の中間に於いて、犯することを得ざれ」という確認の文言であろう。『仏祖正伝菩薩戒作法』ではこのようになっている。
第一摂律儀戒。
千仏の護持する所、曩祖の伝来する所なり。我、今、汝に授く、汝、今身より仏身に至るまで、此の事、能く持つや否や〈三問す〉。能く持つ〈三答す〉。和尚問授し、受者答受す。
諸仏が「先仏」になっていたり、「今身より仏身に至るまで」のところも表現は違うが、「曩祖の伝来する所なり」は同じである。しかも、この表現は「黒谷古本」以外には、見えない気がする。いわば、先ほどの『梵網経』のお唱えを「宋音」とわざわざ断るところと、この「曩祖」云々は同本を典拠としている可能性を指摘したいのである。
そうなると、宗門僧侶の1人としては、『仏祖正伝菩薩戒作法』がどこから来たのか?という点で、強い関心を持たざるを得ない。本書は道元禅師の真筆が残っているわけではない。ただし、瑩山禅師の段階で「廿九歳、永平の演老に就いて、受戒作法を許可せらる。即年冬、始めて戒法を開き、最初に五人を度す」(『洞谷記』)とあって、一般的にはこの「受戒作法」が『仏祖正伝菩薩戒作法』だと考えられている。
瑩山禅師の法系で伝えたとされる『菩薩戒作法』の「大乗寺室内戒本奥書」には、確かに「正応五年(1292年、瑩山禅師29歳で『洞谷記』の記述に合う)八月十三日」に妙高堂[妙高台]で書写したとあり、更に「同十九日、丈室に在りて読校了、同じく作法を伝授し畢んぬ」とあって、当時の永平寺住持だった義演禅師の介添えや伝授があったことを示すので、『菩薩戒作法』を指すと思って間違いないとは思うから、その段階では既に存在していたはずだ(他にも、肥後大慈寺系統もある)。
よって、道元禅師の段階で『菩薩戒作法』が存在していた可能性が高いが、その際に、「如浄禅師からの伝授」という点に於いて、問題が出てくるということになろう。
それから、この記事では最後、「黒谷古本」の相伝(相伝戒)について指摘しておきたい。本書「第七正授戒」項にその旨が記載されていて、簡単に挙げると、以下のようになる。
盧遮那仏⇒釈迦牟尼仏⇒阿逸多等二十余の菩薩(以上、インド)⇒
南岳慧思⇒天台智顗⇒章安⇒智威⇒慧威⇒玄朗⇒湛然⇒道璿(以上、中国)⇒
最澄⇒円仁⇒長意⇒慈念⇒慈忍⇒源心⇒禅仁⇒良忍⇒叡空(以上、日本天台)⇒
源空(法然)⇒聖光⇒良忠⇒良暁⇒良誉⇒了誉(以上、浄土宗)
上記の内容について、「黒谷古本」では端的に、「釈迦如来より二十四代、相伝戒を以て今日你・諸人新受者の仏子に授く」としている。ただし、それであれば、慧思や湛然、最澄が編んだ菩薩戒作法と同じでなくてはならないのに、微妙に改変されているとは思うが、上記のような系譜として主張するのは、一定の説得力がある。
禅宗の場合「仏祖正伝」とは冠唱されるが、文献的にはほぼ全く遡れない。無論、栄西禅師『興禅護国論』でも、入宋時に本師・虚庵懐敞禅師から菩薩戒を受けたことを示すから、授戒の儀式があったとは思うが、中国禅宗はこの辺、本当によく分からない。よって、途中まで天台宗の戒の系譜を用いているとはいえ、浄土宗の相伝戒の系譜は、かなりしっかりしたものという印象を得るのである。
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