そこで、例年この機会に、坐禅に関する祖師方の教示を拝受するように心掛けているが、今年は『緇門警訓』を選んだ。本書は、元代の皇慶2年(1313)に、臨済宗破庵派の永中という僧侶によって編集された文献で、元々存在した『緇門宝訓』(編者等不明)を増補したものである。
本書には、禅僧達による様々な教誡が収録されているが、坐禅に関する教えも複数確認される。よって、7日間で少しでも読み進めてみたい。また、漢文だけで良いのであれば、『大正新脩大蔵経』巻48に収録されているので、ネット上で本文を見ることも容易であるから、参照していただければと思う。
今回は、以下の『坐禅儀』を見ていきたいと思う。
上封仏心才禅師坐禅儀
夫れ坐禅は、端心正意にして、己を潔し心を虚にし、足を疊んで跏趺して、視を収め聴を反して、惺惺として昧からず、沈掉して永離し、縱い事を憶え来るも、情を尽くして抛棄して、静定の処に向かいて正念諦観す。
坐を知るも是れ心、及び返照するも是れ心、有無・中辺・内外を知るも心なり。此の心虚にして而も知り、寂にして而も照す。円明了了として断常に堕せず、霊覚昭昭として揀して虚妄に非ず。
『緇門警訓』巻上
上記『坐禅儀』の著者は、中国臨済宗黄竜派の系統になる仏心本才禅師(霊源惟清禅師の法嗣、11世紀後半~12世紀の人)である。なお、『緇門警訓』では『坐禅儀』としているが、『禅門諸祖師偈頌』下之下では、『坐禅銘』とし、本文の表記も若干異なるなどしており、本来は書誌学的研究を要するのだとは思うが、ここでは略して、ただ上記の文章を読んでいくこととしたい。
まず、前半部分のみだが、坐禅の基本と、身心に関する話が書かれている。気を付けたいのは、「端心正意」である。ここが、「端身正意」の場合もあるようだが、どちらが正しいのだろうか?意味としては、心意をまっすぐにするということから、上記の通りで良いが、身心を真っ直ぐに、との意味であれば「端身正意」になる。
個人的には、上記の一節の通り、身体と心、両方を扱っているので、おそらくは「端身正意」だったのだろうと思っている。
それから、自己を浄くし、心を虚として、足を組んで坐り、視覚と聴覚とを、外に向けずに内に返せば、心が冴えて暗くならず、そして深く沈んで迷いを長く離れるとしている。何か、余計な認識を持っても、心の働きが尽きて抛棄し、静かで集中したところへ、正念が明らかとなる。
ところで、後は坐禅人の「心」の機能について触れているが、坐を知り、返照して自己が法に依ることもまた、心であるという。一方で、分別を知るのも心であるというが、本来、この心は虚であり、しずかに一切の事象を照らす。そのため、法の働きが円かで、断と常の分別に堕落せず、霊覚の優れた働きが明らかで、虚妄になることが無いとしている。
つまり、上記一節では、坐禅によって外界へのとらわれを内に返すことで、心の普遍的なる働きのままにするように示したことになる。
続きは、また明日見ていきたい。
#仏教
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