つらつら日暮らし

或る『因脈』授与の現場

先日から、「安名」について色々と記事を書いたが、もう一つ『血脈』についても書いておきたかったので、これを記事にしておきたい。

十四年己酉 師、六十七歳の春三月。真俗、師を瑞光に請待す。夏四月、知了、母の冥福のために僧堂を造立す。落成の日、師を請うて小参せしむ。六月に至りて、師、病衰すと雖も、日日に学道を激励す。真俗二万余人の為に、帰戒・血脈を授く。乃ち是れ末期の転法輪なり。
    『瑞光隠之和尚年譜』享保14年(1729)項、『曹洞宗全書』「史伝(下)」巻、450頁上段


これは、江戸時代の曹洞宗侶・隠之道顕禅師の最晩年の様子を記したものである。隠之禅師は、かの月舟宗胡禅師や徳翁良高禅師に参じ、最終的には卍山道白禅師の法を嗣いだ。そして、その最期が近付いてくると、病衰しながらも僧侶・俗人問わず、二万人以上のために、三帰戒と『血脈』を授けたとされる。

それで、この時の『血脈』なのだが、文字通りの「三帰戒」のみであったとすれば、いわゆる『因脈(因縁血脈)』であったのだろうと思うのである。その理由としては、以下の一節を見ておきたい。

一 菩薩戒は宗門の一大事なり。嫡嫡正伝の儀規、現在す、而も之を付すに血脈を以てするは証験と為すのみ。今時、或いは儀規を略して、徒らに血脈を付するは最も非なり。若し在家の如きは、且く三帰を授けて而も血脈を付し、勝縁を結ぶも亦た可なり。出家の受授の時、当に儀規を行ずること厳重なるべし。法をして久住せしめんことを図ることを貴ぶ。
    徳翁良高『洞門亀鑑』


徳翁禅師は、隠之禅師からすれば、法の叔父に当たる方であるから、いわゆる法類ということになる。その徳翁禅師が、江戸時代中期頃の、曹洞宗内に於いて尊ばれるべき理念を、複数の項目で著したのが『洞門亀鑑』である。その中には、「菩薩戒」に関する説示も残されていて、以上の通りである。

そして、「若し在家の如きは、且く三帰を授けて而も血脈を付し、勝縁を結ぶも亦た可なり」とあるのは、在家の檀信徒については、三帰と『血脈』のみで良いとし、「勝縁を結ぶ」ことを行うべきだという。これこそまさに『因縁血脈』というべきものである。隠之禅師は遊学中に、関東で徳翁禅師に参じており、後に茨城県の東昌寺(本来は明峰派の寺院ではない)に入ったのも、徳翁禅師との関わりがあると見るのが自然である。

そこで、先に挙げた隠之禅師の『血脈』が、果たして結縁の意味があったかどうかなのだが、この辺は隠之禅師の『語録』に収められた大乗寺慈麟玄趾禅師が撰した隠之禅師の『道行塔銘』から知ることが出来る。

嗣法の師僧五十余人、剃度の徒子若干人、血脈結縁の四衆、万を以て数ふ。
    『瑞光隠之和尚語録』巻11・50丁裏


このように、法嗣が50人以上、得度の弟子は若干名とあって、「血脈結縁の四衆」については、万単位であることが書かれているのである。先に挙げた年譜でも、最後の頃に授けた人の数だけでも、20,000人を超えていたようだから、この数字は事実だったのだろう。そして、「結縁」とある通りで、隠之禅師を通して三宝と縁を結ばれたわけである。やはり、「因縁血脈」という判断は間違っていないように思う。

だいたい、その数なのだから、いわゆる正式な戒名授与まで含めた授戒であるはずが無いといえる。こういうことまで考えると、やはり『血脈』というのは、一方で我々自身の信仰の現れと見る半面、三宝や仏祖との結縁という護符的要素があったと見て良いと思う。

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