慈恩の日々

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読書週間

2011-10-31 21:25:18 | 本・本屋・図書館
今日は、久々の更新ですね。

世間では読書週間に入るのでしょうか。

個人的に本屋や図書館、スーパーのイートインコーナーのテーブルで書き物してると運気が上がるみたいなんですが人の流れがあるというのはいいものですね。

自己啓発本とか漁ったりしてましたが、ピンからキリまであるみたいで哲学のような難解であればいいものでもないらしい

宗教や神智学でも無駄に禁欲的でもあったりもして、高名な方の教えでも個人の波長に合わなかったら無理に合わせなくてもいいのかもしれない

スピリチュアル関係でもよくあるまがい物等見分けるようにしてきましたが、個人的に相性がいいな…と思うのは

◇ディーパック・チョプラの著作

◇ニール・ドナルドウォルシュの「神との対話」シリーズ

◇ザ・シークレット関連の書籍

◇バシャール関連の書籍

◇ラマナ・マハルシの教え

辺りが片寄りがなくバランスが取れているみたいです。(自分にしっくりくる範囲で選んだのですが…)

精神と物質性、どちらかに片寄っても現実から浮いてしまうというか本を読むにしても人間関係と同じで波長が合うか合わないか、ですよね。


図書館旅情

2011-10-21 21:15:35 | 日々・感謝・思うこと
心にわだかまりがあるときにこそ書き物をしてみると既にそれから解き放たれたような自分がいる。

久々に図書館に行ったのですがやはりいいものでしたね。

色々ともやもやした感じでしたが直感がある時はいってみた方がいい。

やはり絵本、児童文学コーナーや世界文学、漫画コーナーに癒されるのでした。

ドイツロマン派やロダン、リルケ関連で非常に読んでみたい本があったのですが、いざ読んでみるとやはりこういうものなのだなと。

個人的にドイツ文学には惹かれる所がありますが、文学の純粋性はノヴァーリス、ヘルダーリン辺りで的を得ている。

リルケもその詩の世界は独特で静かで内聴的ながらも力強く、論説文も洞察力に溢れインスピレーションそのものがほとばしる感じだ。詩人と彫刻家は立場が違えど感ずるものがあり出会ったのだろう…

文学の世界というものも水源と同じで深く掘り一定の認識に辿り着くと応用が利くようになり、他の本を読まなくてもよくなってくる。

だから退廃的なものや現代文学はあまり読んでなかったりするのですが、人間失格とか(笑)

名作、というものも否定的で刺激の強いものを評価しているところがあって、素人の人がそれを知らずにランキングや批評を頼りに迂闊に読んでも痛い目見ることがあるみたいでなんとも…

必読書にあげられていても読んでみて合わないな~と思ったら止めとくのがいいですね。

自己信頼による魅力を

2011-10-19 00:25:11 | 日々・感謝・思うこと
最近何故か漫画雑誌が気になってよくコンビニで立ち読みしているのですが、まぁジャンプ系よりはアフタヌーンとか寄りになってしまいますが(笑)

その中でも漫画全体を見渡してみて昭和黎明期の作家や手塚漫画は普遍性があり時代に左右されないのだな、と気付いたり

現行の漫画を見比べてみて、すぐに古びる流されやすいものとそうでないものを感じてみたり

そして御大や今までに残ってきた作家達の絵柄は堂々としていてみてるこちらも安心させられますね

イラストや漫画絵でも相対してみて魅力を失わないものは、そう感じるのは何故だろうと自分に問いかけながら立ち読みしています

割りと忙しい人なのかもしれない(笑)

ただ、自分自身に信頼を置いている人の絵には人を惹き付けるものがある

情報網が発達して一段と流行というものが流行り廃りしやすくなったけれど

それにより情報や評価を重視していって自信を失う人は出るかもしれないけれど

あれだけ面白いものを創っていたクリエイターがものをつくれなくなる原因のひとつはそこにあるのかもしれない。自分よりも外部の情報や権威を拠り所にしてしまうことによって

だからそれに惑わされない自己信頼。それを養うためにある意味で人間の試験としてネットワークといったものは発達しているのかもしれない

この濃密なリアリティー(現実的)ゲームの中でそれはただ淡々と行われている



―――さあ、みなさんに告げます。
―――ここに集まったみなさんに幸あれ。欲望の根を掘れ。
―――(香(かぐわ)しい)ウシーラ根を求める人がビラーナ草を掘るように。葦が激流に砕かれるように、魔にしばしば砕かれてはならない――仏陀

それはまるで別人のように

2011-10-18 21:01:13 | 日々・感謝・思うこと
あることがきっかけで自分にはできないと思っていたことが魔法のようにできるようになる

それは知識だったり、出会いだったりするのですが

自分をおおっていた無知、覆いのようなものが拭いさられ取り除かれる、ような感じです

薄いカーテンのヴェールが透けていくとやがてはその向こうが見透せるようになっていく

いわゆる臨死体験や事故に遭ったり病床から回復した人は前とはまるで別人のようになったりしますが、一大転機という事象が訪れると人は変わるようです

そういう人は一般の枠組み、常識というある種の洗脳が外れ明確なヴィジョンを示すようになっていく

眠りというものの中でも人は絶えず脳内か何かで活動を行っているらしく、長い眠りから覚めた人というのも何もしていなかったわけではないらしく、以前とは別の認識に生まれ変わっている。そのようなことは様々な文献で述べられていますね

秋の静かな夜長も読書に適した季節、また違った食指の本を探してみるのもいいかもしれません

ストレスの発散としての作品

2011-10-15 18:15:17 | モーニングノート・書く人生
いわゆるストレスというものにも自分を圧縮させるものと原動力になるものがあって

それは捉え方次第でポジティブにもネガティブにもなる

ノートに描いているとそのような自分にも気づきますが固まっていたそれらのエネルギーが溶けて流れ出す感じです

書いていると選択肢が見えて自分が被害者でないと実感できる

ただネガティブなことばかり書いてると引き寄せの法則でそれらに焦点が合わさってしまうので基本的に前向きな物事に転換して書くのがポイントみたいです

そういうことを考えると今メディアの表現媒体でも作家や作者のネガティブなストレスから吐き出した作品というのがわかってきて

それらの刺激の強い否定的なものに何故か人間は反応してしまうところがあって、それを評論家や受け手が新しい表現だといって評価してしまうところがあるみたいです

そういったネガティブなものが読者アンケートで支持を得られ、否定的な側面が送り手も受け手も強化されていくとやがては社会そのものにも及んでしまうので、作家の人生にも読み手の人生の今後にも否定的な影響を及ぼすと思うと考えようによっては人気投票も怖いところがある
(刺激の強い暴力的なものが一定の支持を得られてしまうのも人間種のマゾヒズムに由来している)

それは体に悪いジャンクフードの店舗が世界全土に進出しているのに似ていて、それらに限って中毒的なところがあり注意深くありたい

そういったものを見分ける基準としてそれらと相対したときに自分がどう感じるか、安心するか、に注目すればいいのだけれど自分の中に完璧な平和という基準を養えているかどうか、ですよね



――緩慢な死の原因の大半は、楽しいことか、楽しいことの結果だ。そして楽しいことの大半は、身体を満足させることだ。それはあなたがたの社会が原始的だというしるしだよ。「あなたがたの生命は、だいたい身体的な楽しみを求め、経験することを中心に成り立っている。」
「神との対話③」