1858年2月11日の朝、ベルナデットは洞窟に、薪ひろいにいきます。
そのとき、洞窟の中でひとりの貴婦人を見ることになります。
彼女のほかにはだれも、
貴婦人の姿を見ることも、声を聞くこともできません。
それが、ルルドの奇跡の水のはじまりです。
なぜなら、その後
その貴婦人の導きによって、
(洞窟の中の)泉のありかが教えられ、
そこから奇跡の水がわき出たからです。
なぜその水によって人々がたすかるのか、科学的には証明されてはいません。
ただ、盲人が目をひらき、
一度も立ち上がったことのない子どもが、立ち上がって歩きだします。
その貴婦人がついには、
聖母マリアであることがわかります。
カトリックの信仰の厚い
この地域に、
聖地が、出現しました。
このベルナデットと聖母マリアの出会い、
奇跡の水、
もちろん、そこにはもともと、カトリックの信仰というべースがあったのですが、
この聖地の出現には、宗教が生まれてくる原形のようなものがあるように思います。
批判的にみれば、
ベルナデットは妄想癖があって、思い込みの強い、
無知な少女である可能性は否定できません。
奇跡の水については、
なにも断定することはできないと、態度を保留にすることもできます。
現代医学では、
プラシーボ効果(偽薬でも、ある程度の割合で治ってしまう)という考え方もあります。
しかし、そんな説明で、
このことがほんとうに納得されるはずもない、というのも事実でしょう。
宗教の核心部分には、
人間の理性とか、知性をもってしては、解決できないものがあります。
一歩まちがえば、狂気といってもいいようなものです。
死を目前にして、誰もが死を予感している、だれもがあきらめている子どもに、
母親だけは、
そんな考えに同調しようとはしません。
突然、子どもをかかえ、
泉のもとに走り、
子どもを(泉の)水のなかに、首までつけるのです。
それを見ていた人々は「気が狂った」、「子どもが死ぬぞ」と叫びます。
母親のこの行動は、
それを知らない人がみれば、
一種の狂気にみえてもしかたがないものでした。