見出し画像

時の関守

奇跡の後の人間的すぎる営み ( 3 )

宗教の核心部分には、
常識では説明できない、
簡単には理解不能な、
しかし、かなめ(中心)となるような部分があります。

一見、狂気にも似た、不合理きわまりないものといってもいいのかもしれません。
しかし、そんな説明できないことがあっても、
なおかつ、
信じようとする人間のいとなみが信仰なのだと思います

死のまぎわの子供を泉に浸けた母親は、
子供をベッドに戻し、祈り続けます。
すると、次の日の朝、
生まれてから一度も立ち上がったことのない息子がベッドから降りて、
母に向かって歩いてきていたのです。

私たちの日常が、どんなに生きることに忙しくても、
その瞬間は訪れます。
それは一瞬かもしれません。
かすかに聞こえてくる、
風のささやきのようなものかもしれません。
聞き逃してしまうことのほうが、多いのかもしれませんが、
そんなとき
必ず訪れます。

宗教とは、その核心部分、
一人一人が精神でできた階段を降りて、神の部屋に入る、
その瞬間が、
邪魔されないように、
へんな雑音に邪魔されることのないように、
そんな瞬間を守るためにできた人間的いとなみだと思います。

それは、例えるならば、
やわらかくおいしい木の実を、かたい殻が守っているようなものです。
ただし、そのかたい殻がその本来の役目を忘れたとき、
その役目を逸脱したとき、
殻はその言葉どおりに、からっぽになります。

ベルナデットが、
聖母のみちびきに従って、
奇跡の泉を出現させたとき、
政治家や教会関係者はとまどっていました。


名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日記」カテゴリーもっと見る