goo

ネット坐禅会・27・・・曹洞宗の教義・坐禅の教化

坐禅の教化

禅宗の発達の歴史、宗派の特色、曹洞宗の坐禅観の捉え方などを述べてきましたが、実際の布教については、難しい問題があり、課題も多くあり、模索は続いていると言えます。

江戸時代の禅宗は、黄檗宗の登場により、中国の禅風に沿って、神秘的なお経の唱和、木魚などの鳴らし物による儀式の荘厳さは、人々の信仰を集めたようです。曹洞宗の一つの特性でもある「威儀即仏法」の作法こそ宗旨であるという儀式、身なり重視の宗風は、この頃より強まったと言われています。一方で、坐禅の教化は、一般民衆には難しさがありました。浄土教の念仏や題目を唱える法華経信仰などに比べ、教義をそのままに感じてもらうことは至難の業であったことでしよう。しかし、今に至るまでに、出家の僧侶が守り続けてきた、それぞれの宗派の教義が受け継がれてきた背景には、江戸期の寺請け制度、つまり檀家制度による恩恵といわざるを得ません。

それでも、各派は、教義の浸透に努力を重ねてきたのです。将軍と結びつけられた臨済宗は、その高遠な禅の境地の教化か難しかったと思いますが、江戸の前期に現れた白隠禅師は、民衆の教化に努め、『白隠坐禅和讃』は、自己の中の仏性について分かりやすく説き、禅の教化に尽力し、今日につながっています。

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき
夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず
かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし
いわんや自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり

 このような試みは、各派にもみられたわけですが、曹洞宗は、出家僧のための教義の高まりはあるものの、一般向けの施策に悩み、只管打坐、修証一如の布教の難しさに直面していたことと思います。
 
江戸期が過ぎ、明治政府による国家神道政策が始まり、やがて明治10年頃より、神道以外の宗教も認可していく必要が生じ、各宗教団体に、教義、教化方式の明文化が求められ、一般の人々への教化の方針を示す必要に迫られました。

そこで大きな方向性を打ち出したわけです。(明日に続く)

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« ネット坐禅会... ネット坐禅会... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。