とある寺院の日記。苦労もあれば夢もあります。ごくごくフツウの毎日ですが・・・。
tera日記
ネット坐禅会・35・・・禅と日常生活
当寺参禅会もいよいよ来月から再開することになりました。坐禅は、不要不急なのか・・・と思いつつも、感染のリスクは回避せねばなりません。禅が必要至急なことして、今こそコロナ社会を生きる智慧の源になるべき存在であってほしいところです。
明治の時代に、実際に坐禅することと同じ意味を「受戒」に求め、一般生活に戒を守ることをすすめた経緯については、すでに述べて参りました。しかし、時間的にも精神的にもゆとりが出来、一般の人に坐禅をすすめることが今こそ大切な時代になっていることも記して参りました。この数ヶ月、コロナ自粛により、このニーズはより一層強まった感じがいたします。「ただ坐る」。このシンプルさが、そのまま、今の世を生き抜く本筋の正門の実践行として定着しそうな気配を感じ、また期待したいところです。
曹洞宗がすすめてきた『修証義』第3章の16条の仏戒と禅とを比較してみましょう。まず「十重禁戒」からみてみますと、
1. 殺生 2. 偸盗(ぬすむ) 3.邪淫 4.妄語(嘘偽りの言葉) 5.酤酒(迷惑をかける飲酒) 6.説過(言い過ぎ) 7.自讃毀他(自惚れ排他) 8.慳法財(物心を独り占めにする) 9.瞋恚(苛立つ心) 10.謗三宝(仏法僧の誹謗)
1~6については、坐禅は手足を組み、口も閉ざす訳ですから、当然、言動は静止していますから坐禅中の戒律は守られています。問題は、坐から立った時です。また、7~10の心の問題、精神的な自戒の項目ですが、坐禅の三調の精神(調心・調身・調息)を深く理解し、只管打坐に徹すれば、7~10の、うぬぼれの心、独り占めの心、苛立つ心、ほとけへの誹謗の心は消滅するはずですし、1~6の、殺生、盗み、淫行、悪言、禁止薬酒、軽口等の基本的順守項目も、自ずと消え失せているはずです。ここに禅戒一如という解釈が成立すると思われるわけです。
次に「三聚浄戒」については、
1.摂律儀戒は、上記で書いたように、坐禅を行う行為そのものが、「止悪」の意志表明でありますし、只管打坐、三調の禅の精神を深く理解すれば、坐禅を離れても禅の精神は、この仏戒と同じく自己を律っしていけるものと思います。
2.摂善法戒は、人生の糧になることを積極的に行おうとする習慣のことで「菩提心」と呼ばれる向上心、発心、初心とも言われる精神ですが、坐禅を志すことは、最善の善法と言えましょう。
3.摂衆生戒は、利他の精神についての習慣ですが、坐禅は誰のために、何のためにするのかが問われてくるところです。健康のため、リラックス、精神安定のため・・・と、単に自己満足の目的のみで、他との関わり合いを退ける考えでは、この戒の精神に合致しているとは言えません。ですから、その点でもマインドフルネスやリラクゼーションとしての瞑想法と禅とは、一線を隔すものと言えます。坐禅を深く理解すれば、五欲・五蓋と呼ばれる煩悩(まよい)の元を断ち切り、自他ともに救われる「安楽の法門」であることが分かります。祖師方の記述には、この坐禅による計り知れない無量の功徳を、自他ともに共有し還元すべきであることを伝えています。
「帰依三宝」について述べれば、
もともと坐禅は、祖師方(ブッダ・仏)が悟りを開く機縁になったもので、その(仏)を信じ帰依することは当然のことになるでしょう。そして、それら祖師方が伝えた教え(法)を敬い学ぼうとして頼る心も当然について回ることです。そして、これらの禅の教えに出会い、参禅の機会につながる(僧)と呼ばれる寺、教団、組織、仲間、僧侶といったつながりも心をゆだねる拠り所となることでしょう。
こう見てきますと、戒を受けて仏弟子としての生き方を目指す「戒」と、只管に打坐して、自己中心的な考え、思い量らいを離れて、ただすわる「坐禅」とは同じ意味と効果をもたらすとも言えます。けれども、明治期に一般人にとっては、坐禅のすすめはハードルが高いと思われたのですが、本格的に禅堂で参禅するというだけでなく、気軽に坐に親しむ習慣のすすめも宗門をあげて行われてきました。椅子坐禅の普及もそうです。永平寺の前住職様は、1分坐れば1分の仏様として、お仏壇の前での毎朝の坐禅をすすめられました。直接坐らなくても、調心・調身・調息の禅の精神を伝え、生活の指針としていただくことを目指しております。
6月から、いよいよ参禅会が再開です。1ヶ月以上にわたり行ってきましたネット坐禅会も、しばらくお休みします。皆様の参禅をお待ちしています。コメントはいつでもお受けしますので、感想、ご要望をお寄せください。
« 寺院テレワーク | カラスの赤ちゃん » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |