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ネット坐禅会・38・・・『般若心経』の世界➌ 空相の原理

一切がすべて「空」であるということは、どういうことか、いよいよ、仏教教理の核心に迫ります。

舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識。亦復如是


 シャリープトラよ、物質のすべては「空」と違うことではない。また、「空」は物質のすべてと違うことではない。つまり、物質現象は「空」であるとも言え、「空」は物質現象すべてであるとも言える。このことは、物質に限らず、その物質現象を見て反応する感覚器官(受)、さらにその感覚から動く心(想)、そしてその心によって動くアクション(行)、やがてはこういうことだと認識する固定観念という精神作用(識)そのものが、同じように「空」であるとも言えるし、「空」は、受や想や行や識の精神作用そのものであるとも言えるのです。

 「異ならず」、「異なることは無い」という言い方は、二重否定の微妙なところで、イコールと言っている訳ではないのです。むしろ、強めた言い方であるとも言えるし、単なる「空」という意味よりも、奥の深い意味を含んでいるとも言える言い回しです。「即是」もイコールというよりは「…とも言える」という微妙な言い回しになるデリケートな状況説明になります。それは、「空」とは言っても、現実は変わらぬ確固とした現実が見えて存在するからです。コロナは「空」だと言っても、現実の脅威は変わりません。しかし、確固たる永遠不滅の実体ではなく、ゆれ動き変化している空虚な存在が「今、仮にある」と考えれば、「空」の意味するところが見えてきます。

 もともと「空」の原語である「スーニャ」という言葉は、膨れ上がる、膨張するという意味で使われ、確固たる物質が膨れ上がって、風船のように中が空洞になったり、薄まって半透明のようになって、やがては見えなくなるかも知れないけれど、亡くなっている訳ではなくて見えないだけということを想定した言葉でもあるのです。受・想・行・識という精神作用も、見る人によって、しっかり確固たる実体として見える人と、薄くぼんやり見える人、透明人間のようにいても見えない人が存在してくる訳です。気になりだすと限りなく苦悩が募り、「空相」を感じれば、心安らかな智慧が身に就くのです。

 

舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不滅

 シャリープトラよ、すべての現象は「空」という特色(空相)を備えていて、生まれもしなければ、滅することは無い。汚れることもなければ清らかということも無い。増えもしなければ減りもしない。

「空相」という空の性質は、動かぬ不変の実体としてある訳ではなく、仮りの姿のように、絶えず変化している実像が厳然とゆれ動いて見えていると言えます。この姿を、般若波羅蜜(彼岸の智慧」によって見れば、「空」と見えて、苦悩から救われることができる、と『般若心経』では説きます。ですから移りゆく姿そのものは、生滅とか清濁とか増減とかという相対的な分別の対象になるものでなく、あるがままの「そのもの」なのです。

 当初、インドの地では、創造主・ブラフマンという存在が個々の存在・アートマン(我)を造ったとされていたので、「そうではない、我という確固たる絶対的なものは無い」ということを伝えるために「無我」という説を唱えました。また、その上で常に変化しながら繋がっていく「無常・縁起」の教えを説いたのでした。これを「空」という考えで、整理しなおして表現されているのが『般若心経』なのです。

 

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