とある寺院の日記。苦労もあれば夢もあります。ごくごくフツウの毎日ですが・・・。
tera日記
「ステイホーム」 ネット坐禅会・47
コロナによる自粛要請が続いておりますが、人との接触を防ぐためのステイホームについて、禅の考え方を考察したいと思います。
三回目の緊急事態宣言が、私たちが住む首都圏を中心に発令されて2か月を迎えるこの頃ですが、先行きが心配されます。ワクチンが行きわたり感染抑止が機能するのか、オリンピックは開催できるのか? いよいよ智慧が問われる正念場が近づいて来ました。
先日紹介した冊子『コロナを越えて』では、私の文章も紹介されていますが、十分に伝え切れなかったことを述べてみたいと思います。それは、ステイホームについてです。
「家」に留まり、最低限必要なこと以外の外出を自粛しましょう、という意味のステイホームですが、なかなか徹底できず感染率の下げ止まりも気になるところです。仕事が成り立たず、経済的にも不安が募り、また、行動が制限されることによる精神的なストレスによる歪が、社会全体に広がることも懸念されます。そこで大切な事は、禅の精神に立脚した「ステイホーム」が重要だと思うのです。禅で言う「ホーム・家」とは、「自己存在」という意味です。ステイという意味は、単に物理的に留まることではなく、どっしりと坐る、落ち着く、安住するという意味で、本来の自己に向き合い、その素晴らしさを実現する「自己実現」こそが、禅の考え方の「ステイホーム」です。今こそ、坐禅に出会う好時節到来かも知れません。
そもそも一般的に捉えられてきた家(イエ)、〇〇家という概念は、最少単位の社会を形成してきた訳ですが、親族はもとより近隣地域との共同社会を構成して、互いに互助し見守り合ってきた重要な役割であった訳です。ところが、公的支援が充実し、高度な福祉社会が形成されるに従い、個々に独立して生きていくことが可能になり、「迷惑をかけたくない」「干渉されたくない」というキーワードのもと、核家族化、無縁化の波が押し寄せ、一家庭の中でさえ個人化が進み、「核個人」の時代が到来しています。コロナ禍の現況では、この傾向は益々加速されています。
禅の考え方は、前述の通り、安らぎの居場所としての「ホーム」です。個人化が進む現代社会ではコロナ以前の問題として、イエ制度の崩壊とともに人と人との絆を保ち、安らぎを得る場としての家の機能は、一端、大事が発生した時には心もとない実情となり、孤立感などが増大し、安心して留まる(ステイ)身心の環境が整わないことが心配されます。この状況下で直面した「ステイホーム」の呼びかけですから、多くの問題点を含んでいます。繁華街に出たくなる流れはあるのでしょう。安閑とした自粛生活に限界が見えてくるのは当然かも知れません。
大切なことは、各個人一人ひとりが、自己の尊厳を自覚でき、その自己が発揮できる家(居場所)が存在することです。単なる物理的な住まいの空間ということではありません。自らが、そして、身近な周囲の人同士が、思いやりの心で「心の居場所」を築くことが大切です。その場は、自宅で無くても同じです。何処にいても、自己の中の「ほとけ」に出会い、思いやりと正しく生きる智慧を備えた「ほとけの生き方」を実現し合う社会の構築こそ、ステイホームの禅的解釈と言えます。
コロナ禍が一年ほど経ち、この禅的ステイホーム実現へ向けてのツール(手段)が、様々に工夫されて広がる傾向が垣間見られます。最も顕著なのは、インターネットなどの通信機能の進化で、テレワークはこれからの会社経営のあり方を大きく変えていくことだと思います。と、同時に家庭での職場環境という新たなステイホームのあり方も問われることでしょう。ビジネスと趣味、家庭生活とが同時進行する生活スタイルです。デジタル化が加速し、通販、デリバリー、宅配サービスなどの第四次産業の拡大と共に、そのメリットと悪用の弊害も心配されます。つまり、利用者の智慧とモラルが問われることでしょう。
このような情報の過多化に対応する意味でも、しっかりと真理を見つめる「自己実現」の場、これこそが禅精神の「ステイホーム」と捉え、広めていきたいものです。禅の言葉では「帰家穏坐」(仏の家に帰って静かに坐る)と呼んで大切にされてきた「家」の精神です。
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