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ネット坐禅会・その18・・・曹洞宗の坐禅・修証一如

本来仏様であるはずなのに、苦悩は多く、争いは尽きず、悪知恵はどこまでも際限がありません。コロナの脅威も深刻です。いつ仏はやってくるのでしょうか。この現実の矛盾の中にこそ、坐禅の重要性があると、曹洞禅は展開します。

3.修証一如

何故、仏性があっても安心できないのか。そこに立ちはばかるのが「無明」と呼ばれる人間の無知さ、煩悩とも呼ばれています。お釈迦様の最初の悟りの内容の中にも説かれています。人の迷いの心が連鎖する源を無明と名付け、知らず知らずに負の連鎖がはびこる縁起の考え方につながる根本です。ゆえに、無明の連鎖から逃れる手立てが必要で、道元禅師はそこに修行の必然性を感じ取った訳です。ですから、道元禅師の理論からすれば、もともと仏性があるかどうかは判らない。あるとすれば、仏としての行いを行った時、仏の姿が証明される。「あぁ、仏はあったんだぁ」と、この同時顕現の仏性観を「修証一如」(修証観)と呼び、曹洞禅特有の捉え方なのです。この観点に立てば、もともと実体として存在するものは無いと説く、仏教の無我論と合致しますし、本覚思想とは違うものです。本来「生まれながらに仏である」という実体を否定するということよりも、「生まれながらに仏ではない」という実体も否定して、仏の可能性を秘めていることを前面にふまえ、無垢、フラット、ニュートラル、ゼロからの出発として考えることが肝要です。よく使われる「あるがままに生きる」とか「の自分」も同じ意味と思われます。行動を伴う実践重視の向上心を意味し「発菩提心」と呼び、修証一如と表裏一体の精神なのです。

この精神が述べられている記述です。

この法は、人々の分上に豊かに具われりと雖も、いまだ修せざるには現れず、証せざるには得ることなし、放てば手に満てり、一多の際ならんや、語れば口に満つ、縦横窮りなし。仏法には修証これ一等なり。今も証上の修なるゆゑに、初心の弁道すなはち本証の全体なり。(弁道話)   この仏の性質というものは、人々の持ち分として豊かに備わっているとしても、そのままの姿を行ずること(修)をしなければ、仏の性質は現れて来ないし、仏の性質を自ら実現(証)させなければ、仏を得たことにはなりません。( もともとある仏の性質を ) 行い放てば、両手いっぱいに仏が満ち溢れてきますし、多い少ないという次元を超えています。また、( 仏の性質を ) 語り放てば、口全体に仏法が満ち溢れ、縦横自在に広がります。つまり、仏教では、行い(修)と、結果(証)は、一体で等しいものと考えます。今なお、仏である上に、さらに努力を積み重ねる考え方の教えであるため、初心であっても、紛れもなく仏道を実現している「ほとけ」そのものなのです。

毫釐(ごうり)も差あれば、天地はるかに隔り、違順わずかに起れば、紛然として心を失す。(普勧坐禅儀) 少しの差が天と地のような隔たりとなり、違った方法を僅かでも行えば、たちどころに仏の心を失ってしまうのです。

仏法には修証これ一等なり。➡ 修証一等(一如)

初心の弁道すなはち本証の全体なり。➡ 本証妙修

 

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
座禅会の覚え (木村勝勇)
2020-05-12 08:17:05
1月5日座禅会で頂いた「初心の弁道すなはち本証の全体なり」の色紙が室内壁の一画に鎮座してます。
有名な言葉なのですね、改めて見入りました。
 
 
 
→木村さん (tera)
2020-05-12 22:11:09
ご研鑽ご苦労様です。なかなかコロナの終息も難しそうですが、あらたな生活スタイルの点検の機会としたいものです。
 
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