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ネット坐禅会・その19・・・曹洞宗の坐禅・身心脱落

今生きているリアルな現在こそ、唯一無二のライブ、生放送の生きている瞬間瞬間です。そこを仏の実現として生きるのが、「修証一如」の禅の精神ですが、どのように過ごして行けば良いのでしょうか。

生き方を学ぶという事は、本来の中にあるすばらしい自己を知ること、学ぶこと、そして、大切なことは、自分ひとりよがりの考えを捨て、(自然なども含め)周囲全体に溶け込み、周りからその存在を見て証明してもらうようなものだと、道元禅師は説きます。専門の用語では、「身心脱落(しんじんだつらく)」と言って、身も心も投げ出して仏さまにゆだねるような気持ちを指します。本文に当たってみましょう。

仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己を忘るるなり。自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。(正法眼蔵現成公案) 仏道を学ぶということは、自分を学ぶことであり、自分を学ぶということは、自分を忘れることである。自分を忘れるということは、周りのすべての物事に証明されるということです。周りに証明されるということは、自分から見た自分も、他人から見た自分も離れ溶け合い、一体となることなのです。 

身心自然に脱落して、本来の面目現前せん。(普勧坐禅儀) 身も心も、いつの間にか、自分の思い量らいから離れて、本来の真実の姿が現われます

身心脱落(しんじんだつらく)とは坐禅なり。(宝慶記) 自我を捨て去るとは、坐禅のことです。

 

身心脱落 は、道元禅師が中国で、如浄禅師から正しく法を理解し、悟りの境地を得たこを認められ、教えを受け継ぐことを許された時にやり取りされた言葉です。

本来の自己(仏性)を実現させるために行う行(修証一如)は、身心の自我中心性を取り除くことが大切であることを説いています。その手立てが、身も心も、自我から離れるということで、「身心脱落」と言われています。

 

 

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