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伝道標語

 先日、広島のある地でこんな掲示に出会いました。この掲示板の前で、ちょうど、中学生が通りかかったので、道を尋ねたら親切に教えてくれました。
 このような掲示を見て育つ子供たち、無言の伝道の力はあるはずです。そういえば、広島の子供たちはよく挨拶をしました。因島では、男子高校生風のグループが、向こうから「おはようございます」と明るく声をかけてきた。考え事をしていたので、先にやられてしまったと苦笑。。。上下の町並みでは、午後4時過ぎに下校する小学生が「今、帰りました」と見知らぬ僧服姿の私に声をかけてきた。「お帰り!!」と声をかけ、低学年にしては少し遅い気がしたので、「学校でクラブか何かあったの?」と聞いたら、放課後学習があったとか。それって「おのこり?」と思ったが、後で地元の方に聞いたら、放課後教室、つまり学童保育というものらしい。ともかく、礼儀正しく素直である。
 素朴で心あたたまる感じがしたが、こんな地方の平和な各地で、今、子供たちが危険にさらされていることに、余計に憤りを感じた。

 伝道標語の話にもどりますが、昨日用事で訪れた、教区内のあるご寺院の掲示板に次のことばがありました。
          

この句で、道元禅師の「仏道をならうというは、自己をならうなり」を思い出しました。この句のことで、広島でこんなことがありました。
ある宿泊地で、とても腰と背中が痛いので、マッサージを依頼できるか宿の人に聞きました。夜の9時を回っていて、しかも、交通の不便な山中なのです。一度は断られたのですが、どうしてもおつらいようでしたら・・・といって、宿のご主人が車で町までマッサージ師さんを迎えに行ってきてくださいました。
 そのマッサージ師さんは全盲の80歳くらいの男性です。この仕事に就いたのは50歳くらいからということで、ご苦労されたのだと思います。私が僧侶だとわかると、話出されたのが、先ほどの道元禅師の句です。この句をどこかで聞き、仏さんの話は難しいと思っていたけど、仏道は自分の勉強だと思うと親しみがわいて楽しくなったというのです。そこで、この文字を書いて欲しくてお坊さんに何度も頼むのだそうだけど、この方のお寺さんは、浄土真宗さんらしく、「そんな言葉は知らない」と断られてしまうそうなのです。
 それで、「知っていますか?」ということで尋ねられたのです。
 それはもう・・・、道元禅師さまのお言葉で、正法眼蔵現成公案の巻、覚えている限りの全文を言い始めたり、その意味を解説しはじめましたら・・・。「有難うございます、始めの言葉だけでいいですから、色紙に書いてくれませんか」と言われるのです。見えるのかなぁ・・・という不安を察知したように、今、書道・絵画などの美術品を凹凸で点字風に模写するサービスがあるのだそうです。
 フロントにも色紙の用意はなかったので、私が持っていた半紙に簡易筆で書くことにしました。永年の夢が叶ったと嬉しそうです。「今日は遅くて断ろうと思ったけど、少しでも楽にしてあげられればという思いで来た。これは仏さまの導きだったのだ」と半紙をなでながら嬉しそうでした。私も楽になって嬉しかったです。道元さまが連れてきていただいたかのようでした。不思議な出来事でした。

 「玉語、良く回天の力あり」ですね。標語を掲示されたご住職の徳も無限です。
コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
失礼いたします。 (tenjin95)
2006-06-16 13:44:32
> 管理人様



伝道標語の威力は、意外とあるもので、ウチの寺でも先代の住職が筆まめでしたので大量に作っては貼っていたようです。



そうして代替わりし、ちょっと放っておいたら、それに対するクレームが付きまして、その時「なるほど、これ見ている人かなり居たんだ」と痛感した次第です。



或る意味で、毎日更新しているブログは、そういった先代の住職である先師に倣ったものであるとも言えます。誰とは分からないけど、誰かに届いているかもしれない、そう思うとなかなかに楽しいものでございます。
 
 
 
お互い・・・ (某子)
2006-06-16 13:57:30
とてもいいお話ですね。

きっと、teraさんとマッサージ師の方が見えない糸で引っ張り合った結果だと思います。

そのときに合うべくして合った・・・。



そういうこと、ありますよね。

いつも自分では意識するようにしていて、それを「発見」するとうれしくなります。
 
 
 
→tenjin95さん (tera)
2006-06-16 15:22:16
伝道標語の威力、確かに計り知れないものがあります。けれども、更新することも大変なのですよね。

tenjin95さんのブログ発信も、これはお師匠様の発信の相承を形を変えてされているとも言えるのですね。すばらしいことです。時代とともに形態は変わっても、法布施としての功徳の心は一つなのだと思います。

法布施としてのブログ発信の力は、未知数だと思いますが、影響が大きい事は確かですね。これからもよろしくお願いします。
 
 
 
→某子さん (tera)
2006-06-16 15:28:58
ほんとうに不思議な出会いだったのです。

始まって1~2分でこの話になったのです。宗派も、私の当地訪問の役割も何も知らないでいきなり「この言葉知ってますか?」ですから・・・。

不思議な事ってあるものですね。

大切なのは、某子さんのように、常に感度のいいアンテナを張っているかということなのですね。
 
 
 
縁・・・円 (あゆぼん)
2006-06-16 21:33:10
マッサージ師さんのお話。

まるで小説の1シーンのような出会い。

読ませていただいているだけで、胸が熱くなりました。

ご縁があったのですね。



挨拶を交わすこと、これも人とのつながりで先生の心の中に大きく刻まれたのですよね。

彼らにとって日常であり普通のことが、先生の心に残るような出来事になっているということが、わたしには衝撃的。

そういえば、こちらからご挨拶をしてもただ頷いてお声すら聞えないことが、わたしの日常のような気がいたします。

普段ある他の場面でも、「なぜに返ってこない???」と不思議に思うことが多々ある世の中になってしまったような気もいたします。



「おはようございます。」は気持ち良い言葉ですよね。



素敵なエピソードをありがとうございます。

 
 
 
→あゆぼんさん (tera)
2006-06-17 08:29:00
おはようございます。

ほんとうに不思議な出会いでした。いきなりマニアックな道元さまの言葉が出てきたのでびっくりしました。私のことを聞いていたのかと思いきや、予備知識もなしだったのです。



挨拶のことって確かにありますよね。礼儀正しいあゆぼんさんのことですから、日頃、歯がゆい思いをされることも多いでしょう。広島の子達の挨拶は、全く習慣化され、教育や躾けが行き届いているといった感じでした。都会も見習う必要がありますね。
 
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