とある寺院の日記。苦労もあれば夢もあります。ごくごくフツウの毎日ですが・・・。
tera日記
ネット坐禅会・その23・・・曹洞宗の坐禅・安楽の法門
曹洞宗の坐禅について述べてきました。本日が最終回です。
今までの記述を整理してみますと、次のようになります。最後の 8 が、本日の内容です。
1.仏教の正門 釈迦が坐禅によって悟り、祖師方に受け継がれ、仏教を学ぶ正門としてきたこと。
2.仏性 人は、自らの中に仏の可能性を備えていると思えること。
3.修証一如 しかし、仏としての行いを実践しない限りは、仏は現れては来ないこと。
4.身心脱落 そのためには、自我の思い計らいを離れ、本来の自己を実現するための坐禅が大切であること。
5.帰家穏坐 この坐禅は、外に向かって何かを求めるものではなく、自分自身の家に帰って、穏やかに安座すること似ていること。
6.只管打坐 曹洞宗に伝わる坐禅の特色は、自分の中にあると思われる仏様の姿をそのままに真似をするように実践するもので、自己の思い計らいを捨てて仏さまに「ただ」なりきるもの、その心境を「非思量」という。
7.無量の功徳 坐禅で大切なことは、求めないこと、考えを離れることなので、「坐禅をするといいことがある」、ということを止める必要がある。それを守って、「ただ」に徹した考えで過ごせば、迷いを断ち切り、計り知れない良いことが身に付き、周りの人をもその恩恵につつまれる。個人的な一人の問題ではない。
8.安楽の法門 つまり、この坐禅の精神は、苦を伴うものではなく、幸せ、安らぎへの道である。汚れたから顔を洗う、汗をかいたからお風呂に入る、リラックスし安らぎを求めるために座禅をする、・・・のではない。そうだとしたら、そのときだけ洗面したり風呂に入ればいいし、心身の安らぎを求めたいのならば、健康美容体操、マインドフルネス、呼吸療法、瞑想体験など、目的を追求する方がいい。坐禅は無意識のうちに広がってくる自己中心的な覆いを取り除き、原点に戻してくれる安楽の道なのである。本当の幸せ、安らぎ、本当の自己に出会い、充実した人生を生ききるには、これこそが正門。
まとめに当たるような祖師方の記述です。
憍慢・我慢・法慢を生ずること莫れ。誓って煩悩を断じ、誓って菩提を証せんと念わば、只管打坐して一切不為なる、是れ、参禅の要術なり。(坐禅用心記) けっして奢ったり、自慢したり、教えに慢心してはならない。正しい境地に達しようと思い立ったなら、ただ無目的に打坐に徹すること、これこそ坐禅の考え方で大切なことです。
いわゆる坐禅は、習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり。菩提を究尽するの修証なり。宝蔵自から開けて受容如意ならん 。(普勧坐禅儀) つまるところ、坐禅は習得するものではありません、ただ、安らぎを実現するみ教えなのです。本来の真理を確かめる行いとその証(あかし)の、同事実現なのです。( 坐禅を行えば ) 自らの中にある ( 仏様という ) 宝物が自然に開けて、あるがままをそのままに受け容れることが出来ます。
上が瑩山禅師の言葉、下が道元禅師の言葉です。
さらに瑩山禅師は、このような周囲と溶け込む境地を次のように述べています。
清水、本と表裏無く、虚空終に内外無し。(坐禅用心記) 清らかな水の流れに表も裏も無く、青空は行けども内も外も無く見透されています。
また、道元禅師の話を書き留めた懐奘禅師は、こんなふうに慈愛あふれる言葉を残してくれています。
霧の中を行けば覚えざるに衣しめる。坐禅も自然に久しくせば、忽然として大事を発明して坐禅の正門なる事を知る時も有るべし。(正法眼蔵随聞記) 霧の中を歩けば自然に服もぬれる。坐禅も続ければいつか突然に大切なことに気づき、「あぁこれが仏道の正門だった」とわかることでしょう。
励みになる言葉です。以上で、曹洞宗の坐禅の特色について記しました。
« ネット坐禅会... | ネット坐禅会... » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |