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インド仏蹟巡礼⑥首都デリーとインド概観

このシリーズ最終回、デリーとインドについてです。写真はインド門です。

インドの首都は?→「ニューデリー」でしたよね。ところが、2002年の国連報告で「デリー」に改まりました。
もともと古来から、この地は政治・宗教の中心的な役割をしてきたらしく「デリー」と呼ばれてきたようです。しかし、イギリスのインド進出によって、ボンベイ(ムンバイ)やカルカッタ(コルカタ)が発展し、人口も分散しつつあったそうですが、1931年にイギリスが植民地として統治することとなり、当初はコルカタを拠点としたようですが、東に偏っているということで、デリーが選ばれ、新しい行政の都市として創り直したそうです。これがニューデリー。昔からの街並みは、現在のデリーの南西部に「オールドデリー」として共存しています。

1942年には独立して現在に至るわけですが、2002年まではニューデリーが首都とされてきました。

今回、私たちはデリーで初日と最終日と二泊しましたが、はじめはオールドデリーに、最終日にはニューデリーのホテルに宿泊しました。確かに街並みが違いますね。
 ←オールドデリー
 ←ニューデリー

デリーの東端にあるのがインド門、そして反対側の西側に政府行政の中心的な建物が並んでいます。この間を一直線で結ぶ広い道路が整備されています。この道路を底辺とするように三角形の頂点として北に位置するのがデリー駅だそうです。計画的によく作られたニューデリーです。
   
中央の通りはまったくの直線で、主なる建物がこの道路で結ばれているのです。最終日はめずらしい雨もようとなりました。
インド門は、第一次世界大戦の戦死者を慰霊するための建物だそうです。
←インド門

インドという国、見れば見るほど奥は深い。カースト制度は感じられないまでも、ある程度の階層的なすみ分けで秩序が保たれているという側面も感じました。貧富の差は大きいかも知れません。観光地の至るところで物売り、物乞いの人たちに囲まれます。特に赤ちゃんを抱いた母の姿も見られましたし、子供たちもたくさん関わっています。

また、生活の様子も活発です。人口が多いため、交通もすさまじい過密と混乱があり、すさまじい警笛の音が響き渡っています。屋根上の乗車あり、逆走あり、躊躇していたらインドでは運転できません。
  
しかし、不思議と事故は起きません。大きな喧嘩も見られません。

ナヘランダ、ラジキール、ブッダガヤといった仏蹟の多くはビハーラ州というインドの中でも後進地ですので、この傾向が強かったです。少しでも布施の精神を発揮したいところですが、大混乱を招く恐れもあり、ガイドさんにも固く注意をうながされていました。
近代化の進んだニューデリーのインド門周辺でさえも、物売りの子供の姿がありました。
   
ガイドさんの話によれば、インドで鬱病は皆無だそうです。今日ある命が嬉しくてたまらないのだそうです。これはインドに学ぶべき点かも知れません。

お釈迦様は、この地で何を感じ、何を強く説こうとしたのでありましょうか。現在、インドにおける仏教徒は皆無に等しく、多くがヒンズー教、次いでわずかなイスラム教徒、キリスト教徒と続くようです。しかしながら、お釈迦様の足跡は、2500年を経てもなおインド各地に多く残されており、訪れる観光客の多くは、これら聖地を訪ねるのです。大きな経済効果と言えましょう。
今、この地にお釈迦様が立たれたら、果たして何を思い、何を説くのでありましょうか。

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