とある寺院の日記。苦労もあれば夢もあります。ごくごくフツウの毎日ですが・・・。
tera日記
こどもの躾
最近、強く感じたことがありました。法要中に子どもがうるさいことです。以前から時折あることはあるのですが、最近目立ってきたことです。
本堂などで騒ぐ歩き回る子には、やんわりと注意をして、厳粛さを学んでもらうようにしていますが、葬儀会場などで、式が始まってからはなかなか注意をする勇気がありません。お子さんの状況も知らないために、あまり画一的に叱るのも難しいのかとも思います。親御さんの教育方針もわかりませんので・・・。
教育現場では、「学級崩壊」と叫ばれるように、静かに座っていられない子が増えている実態があります。確かに、法要の場で静かにできない子達が、保育園・幼稚園や学校に行って静かにできるとも思えません。厳粛な法要を営む本堂で、そのマナーを(守れるのに)守らないとしたら、寺院崩壊と呼ばれても仕方ありません。住職の責任が問われるかも知れません。そろそろ対応策を講じなければ・・・、と思うところです。
中には乳飲み子が泣き出したり大きな声でむずがったりして、ばつが悪そうに子どもを抱えて退席するお母さんの姿を目にすることもあります。分別のつかない幼子に要求するのは、無理な話ですが、ここで問題にしたいのは、あきらかに躾れば出来ると思われる年齢に達した子達へのことです。
疑問に思うのは、親はもちろん、祖父母と思われる人も注意をしない点です。ましては、参列されている親族、一般の方々は手の出しようもなく、あきれて見守るか、子どもだからしょうがないと見過ごすのか・・・。
ただ、はっきり言えることは、「子どもだからしょうがない」と見逃すことは良くないことだということです。あくまでも、法要儀式は、みほとけの教えに沿って、あらたな明日の命をともどもに構築するべき厳粛なものです。子どもたちも、その、おとな達の真剣な命の祈りを肌で感じ、畏敬の念を学ぶ、絶好の機会なのです。言っても聞けないのなら、会場から退席させるくらいの厳しさがあってもいいのかも知れません。
私は教育現場にいましたので、わかるのですが、こどもの闊達さを、頭ごなしに叱りつけて萎縮させることが、こどものはつらつとした育成にマイナスなのでは・・・という心配は無用だということです。大切なことは、大事なこと(法要の祈りの時には静粛にするということ)を、真剣に伝えるかということです。
私は、このことをネコに学んでいます。
以前、寺の物置にノラネコが住み着いたことがありました。ある時、そのノラネコが子どもを産んでミャーミャー泣き出すのです。これはほっておいたら大変と、ネコの居場所を捜して連れ出そうと思って、抜き足差し足・・・、近づくと、決まって鳴き声はピタリと止んで、居場所がつかめません。どうせネコの子のことだから、しばらくすれば泣き出すだろうと、根気強く隠れて待っていても、いっこうに警戒を解きません。その徹底ぶりに、流石に脱帽したことがありました。ネコもここで見つかったら命にかかわるものと、必死に親ネコは子猫を躾ていたのでしょう。ネコに出来て人間に出来ない!!!平和ボケのツケかも知れません。
法要の席は、生死を争う場ではないかも知れません。けれども、長い人生の大切な情操を養う貴重な時間と考えれば、「命がけの場」とも言えます。黙って見逃すのも罪なのかも知れません。
本堂などで騒ぐ歩き回る子には、やんわりと注意をして、厳粛さを学んでもらうようにしていますが、葬儀会場などで、式が始まってからはなかなか注意をする勇気がありません。お子さんの状況も知らないために、あまり画一的に叱るのも難しいのかとも思います。親御さんの教育方針もわかりませんので・・・。
教育現場では、「学級崩壊」と叫ばれるように、静かに座っていられない子が増えている実態があります。確かに、法要の場で静かにできない子達が、保育園・幼稚園や学校に行って静かにできるとも思えません。厳粛な法要を営む本堂で、そのマナーを(守れるのに)守らないとしたら、寺院崩壊と呼ばれても仕方ありません。住職の責任が問われるかも知れません。そろそろ対応策を講じなければ・・・、と思うところです。
中には乳飲み子が泣き出したり大きな声でむずがったりして、ばつが悪そうに子どもを抱えて退席するお母さんの姿を目にすることもあります。分別のつかない幼子に要求するのは、無理な話ですが、ここで問題にしたいのは、あきらかに躾れば出来ると思われる年齢に達した子達へのことです。
疑問に思うのは、親はもちろん、祖父母と思われる人も注意をしない点です。ましては、参列されている親族、一般の方々は手の出しようもなく、あきれて見守るか、子どもだからしょうがないと見過ごすのか・・・。
ただ、はっきり言えることは、「子どもだからしょうがない」と見逃すことは良くないことだということです。あくまでも、法要儀式は、みほとけの教えに沿って、あらたな明日の命をともどもに構築するべき厳粛なものです。子どもたちも、その、おとな達の真剣な命の祈りを肌で感じ、畏敬の念を学ぶ、絶好の機会なのです。言っても聞けないのなら、会場から退席させるくらいの厳しさがあってもいいのかも知れません。
私は教育現場にいましたので、わかるのですが、こどもの闊達さを、頭ごなしに叱りつけて萎縮させることが、こどものはつらつとした育成にマイナスなのでは・・・という心配は無用だということです。大切なことは、大事なこと(法要の祈りの時には静粛にするということ)を、真剣に伝えるかということです。
私は、このことをネコに学んでいます。
以前、寺の物置にノラネコが住み着いたことがありました。ある時、そのノラネコが子どもを産んでミャーミャー泣き出すのです。これはほっておいたら大変と、ネコの居場所を捜して連れ出そうと思って、抜き足差し足・・・、近づくと、決まって鳴き声はピタリと止んで、居場所がつかめません。どうせネコの子のことだから、しばらくすれば泣き出すだろうと、根気強く隠れて待っていても、いっこうに警戒を解きません。その徹底ぶりに、流石に脱帽したことがありました。ネコもここで見つかったら命にかかわるものと、必死に親ネコは子猫を躾ていたのでしょう。ネコに出来て人間に出来ない!!!平和ボケのツケかも知れません。
法要の席は、生死を争う場ではないかも知れません。けれども、長い人生の大切な情操を養う貴重な時間と考えれば、「命がけの場」とも言えます。黙って見逃すのも罪なのかも知れません。
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結局、各家庭の中で、好き勝手に育てられていることにも問題があるのだと思います。道元禅師が、次のように仰ったことは、今でも重要であると思う次第です。
世間の人にまじはらず、己が家ばかりにて生長したる人は、心のままにふるまひ、おのれが心を先として人目を知ラず、人の心をかねざる人、必ずあしきなり。学道の用心も是ノごとシ。衆にまじはり、師に随ひて我見を立せず、心をあらため行けば、たやすく道者となるなり。
『正法眼蔵随聞記』巻6-2
我見を捨てることが人格形成では大切なところですが、そのことが、個性の伸張を抑圧するものと勘違いしているおとなが多いのだと思います。
今こそ、道元禅師の教えに学びたいものです。
先日、我が子と同級生の法事に行きました。
読経の最中も、焼香になっても、姿を見せません。
お母さんに「○○君はどうしているの」と聞くと、「奧で遊んでいた」ということでした。
法事の席で騒がれるのも困りますが、無始というのも困ったものです。
躾は大切ですね。
我が子のことも考えなければなりませんが(汗)
ある、友人(以前)の家庭にお邪魔したときのことです。
うちの子供と同じような歳で仲良くできたらな~と、
家に入ったらビックリ 子供だけ土足です、家の中ぜんぶ 親は、何も言わず 私のビックリ顔を見て(うちは、子供の実勢にまかせ「のびのび」と育てています。)と得意げに話してくるのです。
がまん は教えないの?とたずねると(出来る限り 子供のうちは、がまんさせない)教育だとの事、
当然 ながいはせず 付き合いもなくなりました。
なにか かんたんで大事なこと、わすれている親御さんが、比較的若い人に多いいようです。
物事の善し悪しや、忍耐を学び得ることの出来なかった人が、通り魔事件などの凶悪な犯罪を起こしてしまうのでしょうか…
道を歩いているだけで、命を落としかねない今の世の中、確かに生命の危機だなぁ~と一人で納得しちゃています(^^ゞ
まとも(?)に育ててくれた両親に感謝、感謝です。
そのような価値観を持つ若い人も、すぐ社会の中心となる中高年になるのですから恐ろしいですね。
私が伺う家はどういうわけか、子どもたちが皆、法事にきちんと座っているのです。お年寄りが多い家のようにも思います。お家の躾がきちんとなされているのでしょう。
以前、風月庵だよりにも書かせて頂きましたが、幼児からの立腰教育を見直したいですね。坐禅はなかなか浸透させづらいでしょうが、正座はすぐにできます。昔の人間は正座が当たり前でしたから、この正座から生きる姿勢が自然とできていたのではないでしょうか。
本当に子どもの教育を真剣に見直すことが、亡国の救いと思っています。このままでは日本は危ない、と心配しています。
とある知人のブログより寄らせて頂きました
子どもの躾に関するご意見、いたく共感いたしました。
僧の身なれども、私も人の親の身......人事ではないと想いを新たにいたしました。
躾には愛情が必要だとよく言いますが、仏教徒の我々であればそれは「慈悲」という言葉に置き換えられるのでしょうか。
時と場合によっては、嫌われることをも恐れない慈悲の精神が必要なのでしょう。
ご指摘の「子どもだからしょうがない」と見逃す姿勢は、まさに慈悲に欠ける行為だということに気付けたような気がします。
自分の子どもが叱られても許容できるだけの親の姿勢も求められているのかもしれませんね。
それも慈悲の忍耐によるものでしょう
P.S.
コメントが重複してしまいました 調整頂けたらありがたく思います
小さな時こそ、立派な人格を育て、生命を守るための教育の機会なのですね。
感謝していただけるお父様・お母様も嬉しいことですね。そういう意味でも、何とか大切なマナーの徹底を呼びかけて行きたいものです。
貴重な情報提供、ありがとうございます。
ペコちゃんと書こうとしたらネコちゃんになってしまい、送りなおしました。
立腰教育、ほんとうに大切だと思います。畳文化が消えつつありますから、寺の本堂はこのような機会の絶好の場所かも知れません。
ところが残念ながら、大人の要望も高く、だんだんと法要も椅子席になりつつあります。考えなければいけませんね。
今、教化方針で愛語が取り上げられていますが、回天の力となる「愛語」を発することは勇気が要りますが、慈悲とはそういうことなのかも知れませんね。