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薫習~仏教随話(3)

 薫習(くんじゅう)は、仏教教理の中でも深遠な「唯識(ゆいしき)」で用いられる用語ですが、知らず知らずに身に付いていることを表しています。インド仏教では、主に迷いの深層を築き、悟りの妨げとなる心の積み重なるメカニズムとして用いられてきました。
 中国仏教に大きな影響をもたらした『大乗起信論』では、先にあげたインド仏教で説かれた迷いの煩悩差別をつくる染法薫習に加えて、さとりの真如平等をつくる浄法薫習を設定して説明しています。 難しい論議は別として、私たちは知らず知らずに、他の影響を受けて身についていることがあります。それは、悪いことにも良いことにもです。だとすれば、良い環境に身をゆだねることが、より賢明な仏教的な生き方とも言えます。
 道元禅師が説いた言葉を弟子の懐奘(えじょう)禅師がまとめた書物に『正法眼蔵随聞記』がありますが、その中に

        「霧の中を行けば、覚えざるに衣しめる」

という言葉があります。自分では気づかなくても、香のかおりが衣に染み付くように、自然に身についてくるものです。自分で衣に霧をかけたわけでもないのに、濡れるということは、自分の思惑を離れた所縁の成すところにほかなりません。道を成すということはそういうことかも知れません。一生懸命に道に浸っている時に、自然に染み付いて備わってくるものなのだと思います。

  寺環境も頻繁に訪れることによって、自然に仏法が染み付いてくると信じたいものです。また、そんな環境として親しんでいただけるように努力したいと思います。


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「薫習」について、岐阜県瑞龍寺さんのページに記載されていました記事が分かり易いかと思い、以下に転載させていただきました。
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  或る人からこんな質問を受けた。「坐禅を組むと無心になれますか。」私は即座になれませんと答え、更に 「坐禅して去年の借りを思い出し、と言うように無心に成れるどころか、普段忘れていたようなことまで次々と心に浮んできます。だから無心ではなく有心です。」と付け加えた。それならなぜ足の痛い思いまでして坐禅を組みに行く必要があるのでしょう。一般の人は大抵は平生忙しくばたばたと時間に追われている。だからせめて禅寺へ行って坐禅を組んでいる時くらい心静に過ごしたいと思うのは当然のことです。 しかし実際は今申し上げたようにそんな希望通りにはいかないのです。
 では坐禅は何の為に行なうのでしょうか。私はこう考えます。お寺に坐禅を組みに行こうと前日の晩、心に思った時から既に大きな意味での坐禅が始まっていると言っても過言ではありません。
 そしていよいよ当日朝早く起き、顔を洗い準備万端整え、そして車に乗ってお寺に向う。漸く到着して境内に脚を踏み入れ、掃き清められた庭を眺めながら、澄んだ空気を胸一杯吸い込む。これら全てがも う坐禅なのです。もしそのお寺が何百年という伝統に支えられた古刹であれば、自然に醸し出される禅の空気は量り知れないほど深いものがあります。だから例えその日の坐禅がほんの一時間程度の短いものであっても、こう考えるとその人の心の中では相当長時間に渉って坐禅を組んでいることになるわけです。これが実は非常に大切なことなのです。私はまだ未熟でとてもまともな坐禅など組めま せんという人でも、禅堂にただ静に坐れば知らぬ間に無の世界の真っ只中にいることになるのです。自分を取り巻く天井や床、壁、柱全てに禅が染み付いていて、そこから滲み出てくる空気が自然に身体に取り込まれているからです。これを薫習(くんじゅう) と言います。

 

コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
薫習 (白玉)
2007-01-12 09:44:57
薫る習慣・・・(笑)漢字だけみるとそんな感じを受ける言葉ですね。「知らず知らず身に付いていること」ですか、すごい深い意味があるのですね。
 良い行動も悪い行動も習慣化してしまうと、人間感じなくなってしまいますね。だから、いかに良い習慣を身につけるかで、健康状態が変わってくるとある本に出ていましたが・・・。確かに、「環境」というものは大切ですね。わたしは、いろいろな土地に住むという体験をしましたので、「環境から受ける影響」というものが、どういうものか、身を持って感じたという気がします。
 「良い環境に身をゆだねたい」ものです・・・。
 
 
 
坐禅会 (風月)
2007-01-12 13:53:35
私も今月末からあるところの坐禅のお手伝いをすることになっています。カルチャーセンターですので、雰囲気はお寺での坐禅のようにはいかないことはありますが、参加者のかたのお役に少しでもたてればと願っています。

熏習できるほどではないにしても、刻々の坐を大事にと、お伝えしたいと思います。
 
 
 
自然に取り込まれる (某子)
2007-01-12 16:20:24
「自分を取り巻く天井や床、壁、柱全てに
 禅が染み付いていて、そこから滲み出てくる空気が
 自然に身体に取り込まれているからです。」

いい言葉ですね~。
ということは、雑念にとらわれていたとしても
そこにいる、ただ坐っているだけで自然に身体に
取り込まれているということ・・・。

じゃ、やっぱり今年もせっせと通わなくっちゃ・・・。
 
 
 
→白玉さん (tera)
2007-01-12 21:36:35
確かに変わった読み方の言葉ですね。
環境は大切だと思います。私はあまり住居が変わりませんので感じませんが、先生は沢山経験されているので、違いを微妙に感じられたことと思います。
 昨年は、各地を訪ねることが多かったので、その土地ならではの特徴を垣間見ました。環境の影響は大きいのだと思います。
 そして、各地でそれなりに良い環境作りに努力してきた人々の足跡も感じました。

これから、果たして良い環境を時代に託せるかが心配ですが・・・。
 
 
 
→風月さん (tera)
2007-01-12 21:44:37
 禅堂ではないところでの、一般の場での坐禅の普及も大切なご縁かと存じます。参加者の方々にとっては、正に霧中の衣のように法愛に包まれることと思います。
 益々のご活躍をご祈念します。
 
 
 
→某子さん (tera)
2007-01-12 22:13:37
 私もいい言葉だと思いました。ただそこにいるだけでいいと思うと気が楽ですし・・・。
 参禅の環境は、確かに出かける前、決意した時から始まっていると思いますし、建物・室内の環境はもとより、集まってくる道心の人々そのものがすばらしい香りを薫習させてくれる環境だと思います。
 益々のご精進をお祈りします。楽しい参禅レポートお待ちしています。
 
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