とある寺院の日記。苦労もあれば夢もあります。ごくごくフツウの毎日ですが・・・。
tera日記
北九州紀行②~筑豊~
またまた途絶えてしまいましたが、九州の報告をします。写真は、自民党麻生太郎氏の地元、飯塚市内の風景です。美しい山は、「ボタ山」。つまり、石炭採掘をして商品となる石炭(黒いダイヤ)を生産した残りの土砂の山です。現在は緑で覆われた美しい山です。
この写真は、ある会場に展示されていた同じ付近と思われる昭和初期の写真です。地元の人の話では、夜になると、あちこちで石炭のガスによる火が燃えていたといいます。
この町がある筑豊地区は、いわゆる北九州の中央、筑紫平野に広がる筑豊炭田として賑わったところです。大きな町では、この「飯塚」が博多よりにあり、東側に「田川」、そしてこの二つを結んだ線を底辺とする三角形の頂点に位置する町が「直方(のうがた)」です。周囲は山に囲まれていますが、道や鉄道が整備されていて、かつての繁栄を偲ばせるようにどこか活気があります。
訪れたころは稲の収穫前の美しい風景が広がっていました。
特に「田川(たがわ)」は、五木寛之の『青春の門』の舞台としても有名です。そのシンボルでもあるのが「香春岳(かわらだけ)」です。
写真の手前の切り取られた山です。この山はすべて石灰岩でできているために、セメント採掘で削り取られてしまったのです。そして、ふもとにはセメント工場が隣接しています。豊かな鉱物資源を持ったが故に、日本の近代化発展の一翼を担った地であることは確かです。その繁栄と、切り取られていく山を見てきた人々の思いは複雑であったことでしょう。
近くで見ると、衝撃的でもあります。
この町には、各方向からの鉄道線が交差しています。その一つの駅、「田川伊田」駅。
商店街を歩いていると、目に付くものがあります。暴力追放のポスター。活気溢れるかつての躍動の地の残したあとなのでしょうか。
また、様々な差別をなくすために仏教者としての活動をされてきた故狩野老師も、この筑豊の人でありました。
この地のご老師から聞いた話ですが、かつて道元禅師は、京都から中国の地に旅立つ際に、都から海路、瀬戸内海を渡り北九州東部、苅田(かんだ)に着いて、この筑豊の地を横断して博多に到ったということです。その時、道元禅師の目には、先のとがった切り取られる前の香春岳(かわらだけ)の雄姿が映ったことでしょう。
写真は、苅田から田川に入る峠そばの湖。この峠の南には、信仰の山で名高い英彦山(ひこさん)が連なっています。
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