とある寺院の日記。苦労もあれば夢もあります。ごくごくフツウの毎日ですが・・・。
tera日記
仏教と音楽
今日は、観音寺様で、梅花(ご詠歌)の講習があり、講員さん方をお連れしました。デジカメのメモリーを忘れ、画像はナシ。スミマセン。これは22日に行われる管内の奉詠大会出場のための、第5教区講員さん方およそ30余名による合同練習。舞台での並び方、音合わせなどです。私達は傍で聞いていただけですが、みんな揃っての鐘と鈴の音に合わせてのお唱えはとても厳かで、感動的です。
仏教情報センターの広報冊子によりますと、良いお坊さんの資質として、
①いい声・・・聴覚による宗教的感動とも言えること。『いいお経さんあげていただい
た。』というような感想に代表されること。
②気高さ・・・何となく感じる宗教的威厳とも言えること。『○○寺で○年修行したん
だって。やっぱりどこか違うね・・・』というような、脱世俗性の要素。
③ご説法・・・仏法をわかりやすく説いてくれる伝道者の資質。
の三つが一般社会の声なのだそうです。私はどれも失格。①もともと内気な性格で、大きな声を堂々と出すのは苦手。②むしろお寺や僧侶との敷居を低くしてバリアフリーに親しみ易くと思っているので脱世俗どころか世俗そのもの。③せめて、仏教の意味を正確にお伝えしようと思い立って、布教の勉強会に出かけた長崎で、無理な口の開け方をして顎をおかしくしてしまう始末。ダメですなぁ。。。
この結果については、少し意外に感ずる点もあります。我宗門(曹洞宗)では、①の音楽性とも言える要素はあまり研修としては重視されていない気がします。それに対し、②の部類に入るのでしょうか、威儀(いいぎ)、進退(しんたい)というような視覚に訴えることには厳しい伝統があります。剃髪、身なりについても徹底している宗派の一つとも言えます。ただし、真の脱世俗性にそれらがすべてつながっているかは一概に言えないと思うのですが・・・。宗派によっても①~③への取り組みの熱の入れ方が違うので、意外な結果に思えたのだと思います。
①の点について考えると、声明(しょうみょう)と呼ばれるような節のついた唱え方は密教系、浄土系で力点が置かれてきたように思います。御詠歌も伝統的にはこれらの宗派が元になっているようです。
アンケートの結果にも出ているように確かに音楽性は、宗教的感動を呼び起こすには大切な要素かも知れません。仏教の出家性を厳しく追及してきた禅宗系は、その点で、一般の人に聞かせるという音楽性にウエイトがかからないで来たのかも知れません。
我宗門でも、最近はご詠歌が本山の法要でも唱えられるようになりましたし、宗務庁や宗立学校の式典には宗歌の斉唱が行われています。聖歌隊のように、仏教音楽の合唱隊をつくって、法要の際に歌っている近隣の同宗寺院もあります。
個人的には、私自身は楽器が好きで、高校時代には吹奏楽部に所属しましたし、フォークソングのグループを結成したこともありました。ですので、適度な音楽性は取り入れたいとは思っていますが・・・。
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お坊さんの一般社会の声、なるほど!参考になりますね。
でも、わたしはどれも失格です(笑)
これから頑張ります!
teraさまはご謙遜でしょう。僧侶として求められる資質を備えていらっしゃる。
とても尊敬しています。
あちらこちらに思いつきで、重複するような内容ばかりですみません。丁寧なコメント有難うございます。読ませていただきました。
毎日の話材が豊富で内容が濃くて関心しています。是非頑張ってください。
一般社会のお坊さんに対する声は、少しゆがんでいるように思います。寺離れ・僧侶離れ現象の社会にあって、少し離れた敷居が高い存在だからこそ、表面的なみかけで評価されがちになるのだと思います。そういう意味では、ほんとうに自分は良くは評価されない部類だと思います。
ほんとうに求められるべき、智慧とか慈悲とかという仏教の根幹の資質を温めていきたいと思っています。
わからないことはお坊さんに・・・という時代は、仏教教理だけでなく、生きるということすべてへの智慧に信頼感があったのだと思います。
りょうさんの園児教育への思いは慈悲の精神そのものだと思います。正に境内の聖域にある学びの園ならではの教育ともいえましょう。そういう精神教育の期待もあって志願者が多いのだと思います。
自信を持ってご研鑽ください。
励ましのお言葉ありがとうございます!
私のブログはどうも青臭く理想論に走ってしまって、現実の私生活との乖離を感じディレンマに陥ることもあります。裏を返せば、心の中では、そうした真実や理想を追求する気持ちがあるものの、なかなか実践に移せないということかもしれません。ですが、少しでも、自分のなりたい姿に近づいていきたい、そうした意欲を掻き立てるためにも、いまブログがとてもこころの張り合いになっています。毎日、今日は何を書こうかと考えることが自覚的な生活につながっているような気もします。なんとか怠惰な心に負けずに根気よく続けていこうと思います。
一般社会で僧侶が表面的な尺度で見られている。その通りだと思います。それは既成仏教の教団及び僧侶一人ひとりの怠慢によるところも大きいのでしょう。わたしなどは、自らを省みて深く反省するところで。
teraさまは、地域活動をはじめ、寺院内においても、さまざまな取り組みを展開していらっしゃいます。また、ブログはもとより、寺院に出入りする方々で結成されたサークル活動等、寺の敷居を低くするためのさまざまな実践は見習わせていただきたいと思います。チャレンジャーですよね!
まだまだ、寺院は力を取り戻せると私も考えています。釈尊の教えは決して、輝きを失せることはありませんから。ようは伝え方ですよね。人前で話すのが不得手な私は、これから努力していこうと思います。
寺だからできる、そうだから伝えられる慈悲の保育、お言葉を胸にこれからも頑張っていきます!もったいないお言葉ありがとうございました!
僧職のなかには、自分たちと同じ目線で、社会活動や、現代的視点での発言を求られているような印象を持っている人も多いと思います。
私の個人的意見は、世俗のなかに入っての教化よりも、少し距離をおいての活動の方に、共感を持っています。
そういう意味では、ここの「声」に近いかもしれません。
ただし、
① 甚だしい音痴で、梅花は全くダメです。声明も音痴の上に、鼻にかかった声で、ほとんど失格。でも維那は時々
①の続きで、安居していた僧堂の維那和尚は、お経を真剣に読めと口うるさく言っていました。
②剃髪をして、ほとんど洋服を着ない生活をしているのですが、、気高さとは、ほど遠いかな、、
③は、多少及第点がもらえるかもしれません。分かりやすい話という評価を、時々いただきます
これからも、精進していこうと思ってます
③の及第点、うらやましいかぎりです。私も③は重要な要素と思っていますので、頑張りたいと思います。
②について言いますと、実は私も重要な要素であると思っています。けれども、それが敷居が高くなる原因になるとすると残念です。親しみ易くてしかも、気高さを保っていたいという、欲張りな希望です。