平野先生のプランをいただきました。およそ次のような流れです。
問題は「大工さんは、なぜわら靴を買ったのだろう。」
①おみつさんと仲良くなりたいから
②わら靴が気に入ったから
わら靴を買おうと決めたのはどこだろう。
「ふうん、/よし、/もらっとこう。/いくらだね。」
「よし=決意」ここが、わら靴を買うと決めた瞬間。
その前に、考えるはず。それが「ふうん」
ふうん=感心する反面、怪しむ気持ちがある。
「何に感心したのか?」
「何を怪しんだのか?」
感心=普通のものならできそうもないことを達成した驚きと褒める気持ち。つまり、おみつさんが、若い子ができそうもないしっかりしたわらの編み方をしたことを驚き感心しているとなる。形に感心したのではない。
怪しむ=こんなにいいわら靴をこの人が本当に作ったのだろうか?
以上の話し合いから、
問題の答え=見た目は悪いおみつさんのわら靴。しかし、使う人のことを考える心の温かさを感じわら靴を買おうと思った。
この話し合いは、この通りだと思います。ただ、選択問題の答えが①でも②でもなくなってしまうように思います。大工さんの関心は、おみつさんに向けられているのか、わらぐつなのかが解明されるとすっきり終われるように思います。
というのは、字面だけ読むと、子ども達は「わらぐつ」が気に入ったから大工さんは買ったと読み取ると思います。それは、もう少し先の場面に「おれは、わらぐつをこさえたことはないけれども、おれだって職人だから、仕事のよしあしは分かる・・・・。」という部分あり、子ども達はすでにそれを読み、ここでも大工さんはそう思っていると早合点しているからです。
でも、この早合点を、実は大工さんは「わらぐつ」に関心があったのではなく「おみつさん」に関心があったから買った、と打ち砕いてあげたら痛快だろうなと思うのです。
だから、私が昨日選んだ文は、平野先生が選んだ場面の一呼吸前なのです。
だって、市を通った瞬間「おっ」と思ってただの通行人である大工さんが、足を止めるのです。「このわら靴ただ者ではない」と思って、足を止めるものでしょうか?そうは思えません。順序、又は時間の経過があると思うのです。大工さんは、まずおみつさんが気になったから足を止め、その次にわら靴に目がいったのだと思います。そして、そのわら靴が予想以上に良かったから「ふうん」「よし」となったのだと思います。
ならば、ただの通行人である大工さんの足を止める何かがその前にあったはずです。おかしいじゃありませんか。まだ、わら靴をしっかり見たわけでもないし、ましてやだれもが不格好だと断言する商品の前に足を止めるなんて。
私は、大工さんはおみつさんが気になって足を止めたのではないかと考えています。では、それはどこをつついたらいいのか
「おみつさんはがっかりして、不細工なわらぐつを見つめました。」あたりかな?
見つめる=
①対象から視線を離さないでじっと見続ける。凝視する。「一点をじっと─」「相手の目を─」
②目をそらさないで物事をはっきりと見る。直視する。「現実を─」「自分を─・め直す」
よほどがっかりして、落ち込んで、活気のある市場の中でブラックホールがあるような、そこだけ動きが無いような状態だったんじゃあないのかなあ。だから、大工さんはそんなおみつさんが気になった。気になって、よく見たらおかしなわら靴があった。じゃあそのわら靴を精査してみようかな。という順番があるのではないかと思います。
そこには、作者のこんな仕掛けがあるように思うのです。
おみつさんは、「少しくらい格好が悪くても、はく人のことを考えて作ろう。」という気持ちでわら靴を作ったはずです。しかし、そのおみつさんが、はく人のことを考えて作ったわっらぐつを「みっともよくねえ...」と自分で否定します。これはおかしいことです。
つまり、見た目は関係ないと思っていたおみつさんが、いつの間にか見た目が大事だという価値観に変わっているのです。
大工さんは、そんなおみつさんと対比の対象に登場させているのです。おみつさんはわら靴の悪いところを見ているが、大工さんはいいところを見ようとする。おみつさんは、わら靴を見た目で判断しようとするが、大工さんは一生懸命な心を読み取ろうとする。といった具合です。
ここは、作者がおみつさんの心が「A」から「B」に変化した。それを元の「A」に戻す役割の大工さんを登場させていると思うのです。
そう考えると、平野先生のプランでは、答えは、「②わら靴が気に入ったから」とはっきりさせなければいけませんが、ここでは、まだそこまでの話し合いに持って行ける手がかりが見つかりません。私は、この場面からは、「おみつさんの落ち込みが気になって足を止めたが、予想以上のわら靴に出会い、驚いている。」あたりを読み取らせたらいいのではないかと思います。
授業つくりは大変複雑で難しいです。だからと言って、指導書だけに頼っていてはダメだと思います。指導書どうりに授業を展開すると、まず、教師のほんとうの教材研究が疎かになります。次に、項目的な授業、つまり、これをやって、次にこれをやってというように子どもの実態を考えないで進めるような授業になりがちです。これでは、子どもはどんどん受け身になります。子どもの主体性を育てることはできません。あと、大切なことは、真に子どもが考える値打ちのある発問や課題が提示できません。等々です。
一度t0t0さんの学校の授業を参観することをおすすめします。また、一緒に勉強しましょう。
私も授業はなかなか思うようにいきません。ただ、本校は学校の文化として、職員同士が教材について議論する雰囲気があり、「これ、わからん。」というとどれどれと仲間が集まり、一緒に考えてくれます。
もし私で良ければ、一緒に学ばせてください。
講師は最初から、どのように授業をする…とかの指導はなく、全てが手探り状態です。今年は研究推進委員会に算数部ということで、自動的に一員をなっています。そこで、初めて指導案の立て方が少しづつ分かって来かけてたかな?という低レベルの段階です。
最初、授業をどのようにすればいいのですか?とベテランの先生に聞くと、「指導書通りにすればいいのよ!」と言われ、授業前は指導書を読むだけでしたが…それではいけない!と思いながら、どうしたらよいか…というのが本音です。
そこで、御指導願えないでしょうか?お聞きしたいことは、自分が授業をする前に、自分で授業の流れや、発問などをノートに書いた方がいいと思っているのですが、どのようにノートにまとめればよいのでしょうか?それとも、totoroさんが授業の準備なさる具体的な方法をお教えいただけないでしょうか?
あきれるほど、低次元な質問で申し訳ありません
どうか、よろしくお願いします
話はかわりますが、私のブログへの先生からのコメント「難しいから」ですが、校門の前に立ち、子どもたちへの関わりのことです。私が校門の前に立ったときと、ほんとうに思いが同じです。一人一人の子どもの状態や通学班の様子に合わせて、それに適した言葉がけをするようなことです。とっても難しいことです。しかし、それが効果があるかどうかでなく、まずは、そういうことに気づくこと、そして、教師が行動を起こすことが何よりも大切なことだと思います。