ウォーキングと旅行でのひとり言

瀬戸の港町 鞆の浦 散策 その7




田渕屋さんから出てきました。


黄色の線に沿って番号順に歩いています。





次は、「澤村船具店」に向かいます。





少し歩くと、店の前に来れました。

元禄年間に創業し、300年の歴史があるそうです。

古い表構えが残る老舗の船具店。

この建物では、鞆で「蔀帳(ぶちょう)」と呼ばれる建具が特徴です。

商家の1階は、昼間、開け放つために、上半分を吊り上げて、下半分は取り外す、“半蔀(はじとみ)と呼ばれる建具=蔀帳”が使われました。

ベンガラの出格子や柱が趣を感じます。


この通りを歩きます。

近くに「潮待ち茶屋」の看板の店がありました。





1790年代に建てられた商家。

明治の頃は、櫓屋 ”船を漕ぐ櫓造りを営む商家“、現代は食事処「潮待ち茶屋」

中はステキな日本建築だそうです。

鯛茶漬けなどの鯛料理が絶品。この地は鯛で有名です。


さらに歩くと、”平野屋資料館“とありました。





ここの平野屋は、江戸時代の船宿でした。

鞆の津では、商船を相手にした問屋のことを船宿と呼ぶそうです。

当時使用していた調度品を展示。



これから、「鞆の津の商家」に行こうと思いますが、その前に、辻野商店の角を右に曲がって、「旧魚屋萬蔵宅(御船宿いろは)」に寄り道しました。





旧魚屋萬蔵宅です。現在は”御船宿いろは“。





江戸時代の町家のたたずまいを残した旅館です。食事や喫茶もできるようでした。

この間、某ニュース番組で、ここが登場していました。”若一調査隊“。


幕末の「いろは丸事件」では、ここが、龍馬と紀州藩との損害賠償交渉の場所になりました。

龍馬は政治力、交渉力、広範囲な人脈を駆使してこの交渉に勝利します。

その結果、積荷の鉄砲400丁など銃火器の分の約3万6000両、金塊など約4万8000両の合計の賠償として、現在の金額で、25億円から42億円にものぼる額を得ました。


この町家に「ステンドガラスの窓」が見えたのですが、あれは宮崎駿監督のアイデアのようでした。



ここから、少し歩いて、「鞆の津の商家」に行きました。





左側に母屋の入り口があり、江戸時代末期の建物。

右が土蔵で、母屋を突き破るように建っているむかしの米蔵でした。

内部に入らせてもらいました。





懐かしい公衆電話でしょうか?⋯⋯⋯。





保命酒の陶器の入れ物か?⋯⋯⋯。





ここにもお雛様が飾られていました。





奥に、箪笥階段が見えます。

番頭さんが座ったのでしょうね。鉄製のやかん、往時の調度品が⋯⋯⋯。





当初は呉服店で、のちに船具店となった商家でした。





入口の方を振り返った建物の様子。

部屋は、通り庭(土間)に面して、むこうから店の間、中の間、奥の間が一列に並んでいました。


奥の間でしょうね。





外へ出ました。

この商家の説明板を発見。






次は、ここから、「鞆城」に登ります。
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