田渕屋さんから出てきました。
黄色の線に沿って番号順に歩いています。
次は、「澤村船具店」に向かいます。
少し歩くと、店の前に来れました。
元禄年間に創業し、300年の歴史があるそうです。
古い表構えが残る老舗の船具店。
この建物では、鞆で「蔀帳(ぶちょう)」と呼ばれる建具が特徴です。
商家の1階は、昼間、開け放つために、上半分を吊り上げて、下半分は取り外す、“半蔀(はじとみ)と呼ばれる建具=蔀帳”が使われました。
ベンガラの出格子や柱が趣を感じます。
この通りを歩きます。
近くに「潮待ち茶屋」の看板の店がありました。
1790年代に建てられた商家。
明治の頃は、櫓屋 ”船を漕ぐ櫓造りを営む商家“、現代は食事処「潮待ち茶屋」
中はステキな日本建築だそうです。
鯛茶漬けなどの鯛料理が絶品。この地は鯛で有名です。
さらに歩くと、”平野屋資料館“とありました。
ここの平野屋は、江戸時代の船宿でした。
鞆の津では、商船を相手にした問屋のことを船宿と呼ぶそうです。
当時使用していた調度品を展示。
これから、「鞆の津の商家」に行こうと思いますが、その前に、辻野商店の角を右に曲がって、「旧魚屋萬蔵宅(御船宿いろは)」に寄り道しました。
旧魚屋萬蔵宅です。現在は”御船宿いろは“。
江戸時代の町家のたたずまいを残した旅館です。食事や喫茶もできるようでした。
この間、某ニュース番組で、ここが登場していました。”若一調査隊“。
幕末の「いろは丸事件」では、ここが、龍馬と紀州藩との損害賠償交渉の場所になりました。
龍馬は政治力、交渉力、広範囲な人脈を駆使してこの交渉に勝利します。
その結果、積荷の鉄砲400丁など銃火器の分の約3万6000両、金塊など約4万8000両の合計の賠償として、現在の金額で、25億円から42億円にものぼる額を得ました。
この町家に「ステンドガラスの窓」が見えたのですが、あれは宮崎駿監督のアイデアのようでした。
ここから、少し歩いて、「鞆の津の商家」に行きました。
左側に母屋の入り口があり、江戸時代末期の建物。
右が土蔵で、母屋を突き破るように建っているむかしの米蔵でした。
内部に入らせてもらいました。
懐かしい公衆電話でしょうか?⋯⋯⋯。
保命酒の陶器の入れ物か?⋯⋯⋯。
ここにもお雛様が飾られていました。
奥に、箪笥階段が見えます。
番頭さんが座ったのでしょうね。鉄製のやかん、往時の調度品が⋯⋯⋯。
当初は呉服店で、のちに船具店となった商家でした。
入口の方を振り返った建物の様子。
部屋は、通り庭(土間)に面して、むこうから店の間、中の間、奥の間が一列に並んでいました。
奥の間でしょうね。
外へ出ました。
この商家の説明板を発見。
次は、ここから、「鞆城」に登ります。
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