受付の横から、あがらせてもらいました。
あがったところにありました。
二階へ上がる階段だと思います。
前の向こうにあるのが表門で、手前が役所の間・店の間です。
役所の間・店の間から奥のげんかんの間、なかの間、かみの間を見渡したもの
げんかんの間から外を見た風景
三木家は英賀城主の子孫とされていて、のちに飾磨(現姫路市)で飾磨津屋と称する酒屋を営んでいました。
1655年に、姫路藩主の新田開発の呼びかけに応じて、初代の利通が辻川(現福崎町)に移り住んだようでした。
3代善政から8代通済まで、江戸時代を通じて、代々姫路藩の大庄屋を務め、この地域の発展に大きく貢献します。
大庄屋は、庄屋をまとめる役目だそうです。
このげんかんの間の外は、お白州としても使われ、民間の揉め事をさばいたようでした。
(白州は、遠山の金さんでも出てくるやつです。)
三木家の家紋です。
”隅きり角に三木”……‥、この家紋から、三木家の先祖は四国の河野水軍だと推測されるそうでした。
鬼瓦にも家紋
欄間
格子の奥に侍が隠れていたところ
かみの間
縁側に、播但一揆の時にできた刀傷が残されていました。
”播但一揆”は、明治4年に姫路・生野両県で起った大規模なものでした。
一揆では、県の役所や薬園、大庄屋宅、庄屋宅が次々と焼き打ちされます。
かみの間から、げんかんの間の横の電話室のある部屋にきました。
三木家の電話番号が三番であったことを示しています。
最初の頃の電話ですので、電話のあるところは数が限られていたと思われました。
三番というのは、三木家が、この地域でいかに重きをなしていたかと推測されました。
香炉時計
線香・抹香(まっこう)の一端に火をつけ、時間の経過を測るものです。
機械時計以前に中国から日本に伝わったもので、1873年ごろまで使われていたそうです。
おくのくち、おくの部屋の方へ行きました。
外からこれらの部屋に入れないように、戸を閉めたら自動的にロックされるようになっているらしいです。
(昔から、大工さんはすごい技術を持っていたことが推測されました。)
おくのくち、おくの部屋を見たもの
奥にずっと部屋が広がっており、緊急時などに連絡するのにこの鐘を使ったそうでした。
奥の方の部屋は修理が進んでいるようです。
天井の明かり取りが高いところにあります。
表門のところに出てきました。
げんかんの間を見ています。
前が白州として使われた場所
表門から外へ出ました。
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