(次の地図の本町筋から称念寺の方へ右へ少し入った所です。)
絵を描いている人を、離れて見ていました。
今井町は、称念寺を中心にして発展した寺内町で始まります。
織田信長と石山本願寺の戦いの時は、本願寺に味方をします。
濠を深くし、土塁や見通しを妨げる筋違いの道路等を築き桝形として虎口を固め、西口の最前線に、櫓を設けます。
今西家を城構えとして環濠城塞都市となりました。(攻撃ではなくて、自衛でした。)
信長に降参して許され、その後は、自治権を持つ都市として認められました。
自治都市として、「海の堺」「陸の今井」と謳われ栄えました。
最盛期には、「大和の金は今井に七分」と称されるまでになります。
ここから次の観光ポイントの「音村家」、「旧米谷家」を目指します。
もとの本町筋に戻り、東へ歩きます。
少し歩くと、右側に「今井まちや館」がありました。
18世紀初期頃の町屋だそうです。
江戸時代は、金物屋又兵衛、明治以降は寺田又三郎の所有を経て、明治20年度には、恒岡氏所有になったみたいです。
今は、江戸時代中期頃の町屋の様子を体感できる施設として開放されていました。
さらに少し東に行って、左側にいかにも今井町の雰囲気が感じられる「豆腐屋」さんがありました。
わりとゆっくり歩いたのですが、称念寺の太鼓楼を見ていたところから、5分ぐらいで「音村家」に着きます。
この家は屋号を「細九」(細井戸屋久兵衛 九右衛門)といって、金物商等を営み、幕末には相当繁盛していたようでした。
主屋は、17世紀後半頃の建築です。
2階に「虫籠窓」が見れますが、これは、下を見下ろすことが御法度の時代ですので、採光を取り入れるというより、むしろ飾り窓の要素が強く感じられます。
厳しい建築法の規制の中、自分の個性を出そうとしました。
このすぐ東の並びに「旧米谷家」があります。
まだ閉まっています。
13:00まであと少しです。
この通りをさらに東へ行ってみました。
なにかどこかで見た景色と感じませんでしたか。
旧米谷家からこの辺りまでは、NHKのドラマの「あさが来た」で、ロケ地としてよく使われたみたいでした。
どの場面か、思い出してみて下さい。
「今井 景観支援センター 町並み保存整備事務所」の看板が見えます。
13:00になったので、「旧米谷家」に戻ります。
ちょうど、ここの管理をしているおばさんが戸を開けてくれました。
中に入ってすぐ左側に、例の「結界」があります。
客と帳場を隔てる格子のことですね。
この家は、東側に広い土間を取り、西側は今井町では少ない五間取りの部屋になっていました。
ハシゴの上の小さな部屋は使用人の部屋だと思います。
夜中に、使用人が逃げて帰らないように、梯子を外す?…………。
「土間のかまど」
蔵の前の座敷です。
襖の向こうにあるのは、蔵でした。
素敵な数寄屋風の造りですね。
この家のご隠居の部屋だったのではと推測されるそうでした。
引退後、ここにおれば、蔵の中をしっかり管理できますね。
次の風景に記憶がありませんか。(問題 なにかのCMに出てきました。宮沢りえちゃん、本木雅弘、松坂大輔……。)
部屋を横から見たところ
もう、皆さんわかったと思います。
すごい天井です。(根太天井)
この家の屋号は「米忠」と言い、代々、金物屋、肥料商をおこなっていました。
18世紀中頃の建物とみられます。
根太天井や、土間部分には煙返しもありました。
江戸時代の商家の雰囲気が味わえました。
外へ出て、次の観光ポイントに向かおうと思います。
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