地図の黄色の線に沿って番号順に歩きます。
今、昼食の場所の「山長」から出てきたところです。
山長の看板の下に次のような説明板がありました。
この通りをさらに西へ向かいました。
街道の石の道標がありました。
「左 ふたみ」とあるのは二見城のことでしょうか。
「札場跡」とあるのは、高札をを立てた場所のことでしょうか?
高札とは、江戸時代に、人通りの多い辻や橋のたもとなどにあった、いろんな布告や禁令を告げるもの。
さらに街道を西へ歩きます。
ここは、昔の時代にタイムスリップした想いに錯覚させられました。
タバコの看板がなんともいえません。
通りを貫いて、「五新鉄道」の跡があります。
幻の五新鉄道と言われ、実現しなかった鉄道です。
五條市から新宮市を結ぶものでした。
さらに西へ歩きます。
江戸時代に建てられた町家は鉄格子窓や虫籠窓が特徴で、明治から大正の時代の町家は格子窓や開戸を構えたものが特徴のようです。
窓の形に注意すれば時代がわかるようでした。
「大野屋」にやってきました。
旗にある「柿ぷりん」に興味があります。
ここは、江戸時代の風情を感じさせる町家です。
現在は、五條市の企業家支援施設として使われているようでした。
中には、食堂、カフェ、展示の3つのスペースがあるようです。
さらに西へ街道を歩きました。
「西方寺」にやってきました。
境内に墓碑が⋯⋯⋯。
「松倉豊後守頌徳碑」と読めました。
松倉重政は、戦国大名筒井家の重臣でした。
関ヶ原の戦いの武勲を持って、徳川家康により五条二見藩一万石余の大名に取り立てられます。
重政は、二見城を居城に定め、城下町として新町をつくり、「地子銭・諸役免許(免除)」の特権を与え、
商人を保護して城下町の発展をうみました。
ここでは、民は重政にひじょうに感謝したようでした。
寺の外へ出ました。
寺のすぐ隣に「山田旅館」があります。
江戸時代の町家で、五條市内で最古の旅館です。
かっての名は「五二館」といっていました。
五条村と二見村の間の意味のようです。
この石碑の前でたたずんでいたら、道を挟んですぐ前の医院の先生から声をかけられました。
「よかったら、この近くのことについて説明しましょうか。」
喜んで説明してもらいました。
この石碑にある森脇屋(柏田)久兵衛はこのあたりの庄屋の家でした。
石碑のある付近の風景です。
先生は、新町の保存の仕事をされているようでした。
楽しい説明を受けたあとに、この後、見ておかなければいけない観光ポイントと、五新鉄道がよく見える場所を聞きました。
それで、吉野川の土手道に出てみることにしました。
吉野川(紀ノ川)です。
土手道から見た新町通りの町家の風景です。
この土手道の端に座って、この景色を見ながら、少し休憩します。
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