市川が流れ、そのはるか向こうが姫路の街だと思います。
この場所は、この絵図の本丸のところあたりだと想像しました。
(この絵図自体がイメージとのこと)
国府山城は、別名を妻鹿城、攻山城と言います。
官兵衛が自らの居城であった姫路城を秀吉に明け渡し、移り住んだ城と言われていました。
ここから、姫路城が見えるということは、見事なところに城を築いたと改めて驚きます。
また、この城は城郭の観点から見て砦のような小規模なものですが、優れたところが多くあったと思われました。
○たいへん堅困な要砦をなしているということ
○瀬戸内海を一望のもとに眺めることができる見晴らしの良い城であること
○市川、京口川を使って、姫路城の近くまで船で行くことができたこと
築城の名手の黒田官兵衛はこの城の築城から始まったと言われるほどです。
再び、城跡を歩きました。
これから、下りです。
また、また、廓跡……。
庭園廓
建物に庭園が付属していたのでしょうか?……。
石組みの跡があります。
建物が、まったくないのを想像しながら見学するのも、ある意味楽しいですね。
「磐座跡」にやってきました。
上のイメージの絵図にも名前が出ていました。
神様にお祈りした場所でしょうか?……。
磐座を調べると、”古神道における岩に対する信仰のこと”とあります。
曲輪跡
先ほどより大規模の磐座跡です。
これから本格的な下りです。
荒神社を目指して降りていきます。
(迷わずに行けるか、少し不安でした。)
なんとか、神社に戻ってこれました。
この場所で、再び、あの近所の男性とお会いします。
国府山城や黒田家に関するプリントやパンフレットをいただきました。
(なんと、親切な方でした。)
次の地図の黄色の線に沿って、番号順にウォーキングを再開します。
(今は③の荒神社にいます。)
ここから、次の観光ポイントの「妻鹿町資料館」を目指しました。
神社から出てきて、市川沿いの道に上がってきたところ……。
(この場所は地図のHのところから神社の方向を見た風景です。)
市川の川沿いに南へ歩きます。
しばらく歩いて、川沿いの道からそれ、左にに降りていきました。
以前に通った場所です。
(地図のB地点)
さらにしばらく歩いてこの場所に来ました。(地図のC地点)
この案内看板の右側の道で、山陽電車の線路下をくぐります。
ここから、地図の黄色の線に沿って、迷いながらですが、なんとか「妻鹿町資料館」にやってきました。
(荒神社から約30分経過)
この資料館には、「灘のけんか祭り」で使われる屋台や獅子舞などが収められているそうです。
(残念ながら、非公開です。)
屋台の高欄かけには、官兵衛と、二十四騎のひとりの母里太兵衛が刺繍で描かれています。
資料館の前の大きなお宅(地図のI地点)
近くに、「妻鹿の固寧倉(こねいそう)」がありました。
固寧倉は、酒井時代の姫路藩領内に設けられた、飢饉などの非常時に備えるために穀物を貯蔵するのを目的とした倉庫です。
なにか、お祭りの準備をしているのでしょうか?…………。
ここから次の観光ポイントの「浄照寺」に向かいました。
地図を見ながら歩いていますが、妻鹿町資料館からだいぶん離れているので、迷いながらです。
携帯のナビも使いながら、なんとか「浄照寺」に着きました。
官兵衛が松原神社に寄進した鐘楼が、浄照寺の境内に移設されているとのことです。
その鐘楼と思われます。
檀家の方がたくさん集まってお掃除されているみたいでした。
ここから、最後の観光ポイントの「松原八幡神社」を目指しました。
浄照寺の近くに、いい雰囲気の店を見つけました。
何故かロマンを感じる店でした。
この通りをひたすら東に歩きます。
しばらく歩いて、ようやく「松原八幡神社」が見えました。
(妻鹿町資料館から約40分かかりました。)
神社の境内に入ります。
灘のけんか祭りで有名な神社
境内から出てきました。
これで、”妻鹿の黒田官兵衛のゆかりの地” をめぐるウォーキングは終了です。
ここから、山陽電車の白浜の宮駅へ行き、網干駅に電車で行きます。
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