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マイヤーズ通信による「魂の三つの種類」 その2

2011-10-24 00:05:05 | 高森光季>スピリチュアリズム霊学


◆魂的な人

 《あなたがたが第二番目の魂的な人にあたるなら、――言い換えると知的にも道徳的にも進歩した魂ということだが――意識の段階を登っていこうという意欲がある。そして、物質的実体に対する熱情は、ほんのわずかな例外を除いては燃えつきて灰となってしまっている。
 魂的な人のうちのある者は地上に戻りたいと願う。そうでないとしても、どこか他の星に生まれて、なんらかの知的成果を達成したいと思うか、その星の生存競争の中で赫々たる役割を演じたいと望むのである。それゆえ、こうした人は肉体的に再生する。しかし大部分の魂的な人々はエーテル体を脱ぎ捨てて、さらに精妙な形態を身にまとう。彼らは幻想の国、すなわち地上生活の古い幻のうちに生きるだけの保育室的な生き方から解放される。》(『不滅への道』第五章)
 《魂的な人は主として形態の中に住むかぎり、超地上的一存在であることに満足しているはずである。この状態にも多くの段階があり、自らを表現する形態も多様である。彼らは振動律の差によって互いに異なるのである。つまり精妙な振動を持つほど霊的知覚も優れたものとなり、理解の範囲が広がるにつれて、われわれが神と呼んでいる〈神秘〉――すなわち霊的な探求の到達点――についての経験が深まるのである。》(同)

 「自我の高い部分」が目覚め、「知的にも道徳的にも進歩し」、「物質的実体に対する熱情が燃え尽きた」魂。それが「魂的な人」ということです。
 果たしてそういった人がどのくらいの割合でいるのか、どの程度進歩したらいいのか、物質への熱情はほとんどなくならないとだめなのか、そして自分は果たして「動物的な人」からこの「魂的な人」になったのだろうか、なりうるのだろうか……。
 様々な疑問が出るところです。

 そこは考えても詮無いところなのかもしれません。シルバー・バーチさんはこう言っています。
 《自分が果たしてどの程度の人間か、どの程度進化しているかを自分で判断することは、今のあなた方には無理なことです。判断を下す手段を持ち合わせないからです。》(『シルバー・バーチの霊訓』第1巻、110頁)
 《あなた方は自分が成就しつつあることを測定することが出来ません。地上には魂の成長と霊的成就の結果を測定する装置もありません。》(同、第9巻、97頁)
 私たちはただ、「むなしく輪廻することはやめたい、もっと成長進化の道を歩みたい」と願うことしかないでしょう。そして、そのために「知的・道徳的」になろうと自己研鑽するしか。

 でも、スピリチュアリズムを知り、それを生きようとしている人なら、今回で卒業できるか、もう一度だけで済むのではないかと思います。スピリチュアリズムに限らず、宗教や哲学のよい部分を知り、生きようとしている人も同じだと思います。
 ある霊能哲学者が言うには、「“上がる”人は3%くらい」とのことです。本当かどうかはわかりません。多いか少ないかも何とも言えません。少ないと言えばそうかもしれませんが、3%もいるのは多いと言われればそうかもしれません。

 (補注)算数的な考え方ができないので(笑い)よくわからないのですが、「3%」というのを考えてみると、たとえば全校生徒が100人いて、そのうち毎回3人が卒業するとすると、その学校は33学年あるということにならないでしょうか。1回の生で1学年上がるというふうに考えればの話で、落第とか飛び級とかがあると考えると学年というのは意味がなくなってしまいますが。
 まあこれは単なる思考実験に過ぎませんが、ともあれ、“上がる”魂のパーセンテージが少なくなればなるほど、それに必要とされる生まれ変わりの回数は多くなる、ということになるのではないでしょうか。3%は多すぎだと思えば、再生回数は数十回とか3桁になることになるし、再生数十回は多すぎだと思えば、“上がり”のパーセンテージを多く考えなければならなくなる。そう考えると、3%というのは、決して多くはないようにも思えます。(この考え方、とんでもない間違いをしているでしょうか?w)

 逆に言えば、「もうこの世に生まれ変わらない」ということは、滅茶苦茶大変なことではないだろうということです。仏教では、必死に断欲修行しても何回もかかるぞとか、何億年もかかるぞとか言っていましたが、そうではない。究極の地点(神)へとたどり着くのは何億年もかかるかもしれませんけど、「この世に再生しない」ということは、ずっとその手前にあることで、けっこう多くの魂が可能なことのはずです。
 「未済のカルマはどうするのだ」という考え方もあるでしょうが、カルマ――魂が学ぶべき課題――は、この世=物質世界でないと果たせないとは限りません。誰かの守護霊や随伴霊となって一緒に苦労するというやり方もあるのかもしれません。

 このことはマイヤーズ霊そのものが証明しているわけで、生前のフレデリック・マイヤーズは、心霊研究に打ち込みましたが、何か宗教的修行をしたわけでもないし、偉大な奉仕活動をしたわけでもありません。けれども彼は、輪廻の輪を脱け出し、この世の大元とも言える「形相界」に進んだわけです。そして、「通常の霊媒を通して交信する霊たち」よりも高い境域から、あの壮大な霊的哲学を通信してきました。何度も言っていますが、地上時代の身元がわかっている魂が、輪廻界(幻想界)を超えたことが明らかになったのは、マイヤーズのみなのです。

 「魂的な人」は、必ずしも偉大な活動や厳しい修行をしている人ばかりではありません。マイヤーズ霊は、こう言っています。
 《偉大な人々はしばしば全く無名の生涯をおくる。ほんの一握りの親しい人に知られるだけで世間からはほとんど見過ごされ、彼らの周囲の人が死んでしまうと、その記憶は何処にも残らない。人間の英雄性を例証するとも言える無私で高貴な努力を証言できる者は誰もいない。このような霊感に満ちた魂は工場労働者や店員や農夫の身体に宿るかもしれないのである。格別目立つこともなかったが――広い意味でだが――立派に生きた生涯は、おそらく、類魂に直接啓発された愛と偉大さを最大限に表わすものである。そこで、目に見えぬ世界では最初のものが後になり、後のものが先になるというわけである。
 かくして、地上における最後の旅で人知れずひっそりと通り過ぎてゆくのが、私が「魂的な人」と呼ぶうちのある人たちの運命なのである。無名で控え目で意のままにならない生活をおくりながら、彼らはより大きな個性へと飛躍するときのために準備するのである。》(『人間個性を超えて』第10章)
 目立たない「工場労働者や店員や農夫」が「“今回であがり”の人」かもしれないのです。逆に、世に名を馳せていても、「動物的な人」の段階にいる人もいるでしょう(たぶんかなりたくさん)。地上の栄華や成功と、魂のレベルは直接関係ないわけです。

 マイヤーズ霊も言っているように、この世を卒業しても、その魂のたどる道は実に様々です。
 ごく一部は、何か偉業を達成したいと願い、この地球や他の星に生まれ変わるかもしれません。
 この世に結びつきを残していたり、まだ慈愛とか奉仕の面で未熟な魂は、特定の場所や集団や社会を守護する役割を務めるかもしれません。誰かの守護霊となってその危なっかしい歩みを見守りつつ、自己研鑽を続けるかもしれません。(今度の「2ちゃんねるのスピリチュアリズム」にはそういう話を載せます。)
 創造性を発展させた魂は、この世のすべての活動の原型をなしている「形相界」へ進み、そこで音楽・絵画・文学などの創造活動にいそしむでしょう。哲学や科学といった探究を続ける魂もいるでしょう。
 さらにはマイヤーズ通信が描いたような上昇の道――「火焔界」「光明界」――を昇っていき、より大きな叡智を得て、類魂を引き上げる役割を果たすかもしれません。
 そしてごくごく稀であっても、至高存在の近くに行き、全宇宙の運営と創造に参画する――仏になる?――魂もいるかもしれません。(マイヤーズ霊は「地球生命のあるあいだに、彼岸に渡れる人はほんの一握りの人たちである」と言っています。)

 この世はごく限定された世界。その上には、めくるめくような広大な世界があり、数え切れない道がある。はるか先には、地球や人間といった条件さえ相対化され、大した問題ではなくなるような世界がある。
 この世を卒業するということは、そういった世界へ向かっていく入り口に立ったに過ぎません。その時点で菩薩や仏になるわけではありません。そこからさらに成長進化の営みをしていかなければならないわけです。


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