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東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

考えない幸福?

2011-09-30 00:14:24 | 高森光季>スピリチュアリズム霊学

 私たちはだいたいいつも「考えて」います。
 ただその大半は、あまり大したものでもないし、いいものでもありません。
 普通に生活していれば、仕事のこと、まわりの人間関係、将来のこと、そういったことを考えるでしょう。
 しかも、その多くは「まったくあいつは」「なんで俺は」といった愚痴か、「これからどうなるのだろう」といった取り越し苦労なのではないでしょうか。
 そういった状況では、「考える」ことは苦痛でしかありません。
 何も考えない状態、それが極楽に思えるわけです。

 「考えない」生活というものがあるのでしょうか。
 「大金持ちになったら悩みがなくなっていいだろう」というのはハズレです。どんなに裕福な生活をしても、いろいろと考えることはあって、悩みもあります。まあこんなことは言うまでもないでしょうが。

 私もそうですが、日本人のけっこう多くが憧れの目をもって見るのが、「職人」です。
 彼らはものすごい集中力で細かい作業に没頭します。徹底的に「物」を見つめ、手の感覚を研ぎ澄ませ続けます。変なことを考えている余裕はないし、考えて心が揺れたら、手もふらついてすべてが台無しになります。
 この間、職人は対象のことは捉えて判断していますが、「考えて」はいない。ましてや自分のことやまわりの状況のことをあれこれ考えたりはしない。
 あれこれ考えて苦しんでいる者にとっては、「至福の時間」のようにも見えるわけです。(私も昔、漆器職人や陶芸家に憧れたことがあります。)

 こういった状態は、別に職人ではなくても、一心不乱に作業をしていれば誰でも体験します。
 ものすごい集中で数時間ぶっ続けて仕事をする。それはなかなか心地よい時間です。
 スポーツなどでも体験できます。ボールに集中する、相手の動きに集中する、本当にそれが達成された時、しばしば「ゾーン」と呼ばれる神秘的体験もすることができるでしょう。
 (もっとも経験者談では、野球のピッチャーはだいたいマウンドで「俺ってかっこいい?」と思ってやっているそうですw)

 でも、一生、そういう時間ばかりで過ごすことはできない。職人だってスポーツマンだって、普通に生活する時間があるし、そこではあれこれ考える。特に大物になったらいろいろ厄介なことも抱え込まなくてはならない。
 それに、もし一生、ほとんどの時間を「職人仕事」に費やすなどということがあったら、それに人は憧れるでしょうか。それはむしろ「奴隷」に近い状態になりはしないでしょうか。奴隷こそ、何も考える暇がないほど働かされるわけですから。

      *      *      *

 「考えない」ということを理想にする宗教的思想があります。しかもいくつも。たとえば、
  ・聖なる幼童
  ・聖なる愚者
  ・無念無想
 「聖なる幼童」とは、まだ現世的思考に染まらない状態の幼童が「神のもの」だと捉える古来からの信仰です。実際、幼児期はまだ霊魂と肉体ががっちり結びつかず、霊体がはみ出していたりするので、霊的存在の影響を受けやすいし、霊的な感知能力も高い場合があります。これはちょっと「考えない」という主題とは異なる次元の問題でしょう。
 「無念無想」というのは、内的瞑想の方法ないし目標で、ある種の高次体験をするために、反省的意識や自己観察・判断などを停止させることだと言えるように思います。「いや、無念無想それ自体が目標だ」という考え方もありますが、ちょっとそれは違うのではないかと思います。また、瞑想から出て普通の生活に戻れば無念無想はあり得ないわけで、仏教者が時々言う「透徹した叡智をもって自由に働く心」云々というのは、無念無想と表現するのは不適切ではないかと思いますし、それは「考えない」という状態でもないでしょう。

 「聖なる愚者」というのはどういうことでしょうか。
 求道探究を深めていって、ある境地に到達し、もはや外的知識や教義信条を云々する必要がなくなった状態? いや、それだけでは十分ではないですね。我欲というものを脱していること、自己への思いを肯定否定ともに持たないこと、打算や取り越し苦労などをしないこと……まあ、いろいろな要素があるのでしょう。
 日本仏教では、「愚」という言葉が好んで使われます。「愚禿」を名字にした親鸞、「大愚」を号とした良寛などなど。まあ、親鸞の場合はちょっと卑下慢に近い屈折した心情が入っていると思いますけれども、禅では、教義や思考や文字にとらわれない悟達の境地を「大愚」と表現することがあるようです。何ものにもとらわれず、何ものも求めず。
 こうしたイメージは、日本の宗教文化の中では、ある種の理想型になっているようにも思えます。

 「聖なる愚」という時、見逃してはいけないのは、それは深い求道探究の後にあるとされることです。初めから「愚」ということではありません。
 これで思い起こすのがケン・ウィルバーの「プレ/ポストの錯誤」です。たとえば、自己というものへの集中といったものは、自己確立期の前にはありません。また成熟期を越えれば減少していきます。この「前」と「後」を同一のものと見ることは間違いである、ということです。
 つまり、日本の宗教文化で言う「聖なる愚」は、「知」を越えた後の「脱・知」であって、「知」を獲得する前の「未・知」ではないということです。
 だから、「知的営為など、小賢しい」と言えるのは、相当の探究を果たした者のみが言えることであって、そういうことをせず嘲笑しているのは単なる愚かに過ぎないということです。

 この「知を深究して脱・知へ行く」という理想型は、西洋にはあるのでしょうか。寡聞にしてよくわかりませんが、エピキュロス(単なる快楽主義者ではありません)などはその原型かもしれません。歌でも「Fool on the hill」なんていうのもありましたね。ただ、それほど優勢な理想型ではないように思えます。スターウォーズのヨーダは最初、愚者として登場しましたが、あれは東洋的な理想型ですね。ルーカスは東洋かぶれですから、ああいう設定をしたのでしょうけれども、あれを見た西洋人は理解できたのでしょうか。

 やはり日本では、「聖なる愚者」という理想型は強いように思えます。「大賢は大愚に似たり」「大賢は愚なるが如し」という表現はどうも諺のようで、これは「知識をひけらかすな」という意味に使われたりもするようですが、そういった社会マナーの話ではなく、「知を捨てた者」「あれこれ考えない者」こそが聖者であるというような思想があるように思います。
 私も日本人として、そういう理想型に共感しないでもないのですが。

      *      *      *

 しかし、叡智は「知」あるいは考えることなしには生まれないものでしょう。叡智は知と信仰とがあいまって生まれるものであり、また、知や「考えること」を捨てたら、それ以上の叡智の発展は生まれないでしょう。
 「知(考え)は信を損なう」とか「知の混じらない信仰こそ純粋」といった考え方は、へたをすれば盲信・狂気を生み出します。それは当人の自己満足的安心のためには都合よい場合もあるでしょうが、人間の精神・魂の進化成長という観点からすれば、停滞でしかないでしょう。
 へたに「聖なる愚者」を気取って停滞するよりは、一生、悩み考えながら成長していくのが、人間の責務なのではないでしょうか。

 「考え」をうまく使うことはなかなか難しいことでしょう。しっかりと物事の本質を掴もうとする考え方は、試行錯誤して訓練しないとできないかもしれません。堂々巡りの愚痴や、取り越し苦労など、普段のぐじゃぐじゃな考えに苦しむなら、いっそ考えない方がと思うのも、自然なことです。
 けれども、「考える」歓びというものもあります。真剣に考え尽くし、ひらめきを得たり、より広い、あるいは深い視野を得たりすることは、他のものに代え難い歓びがあります。

 「考えない」という安楽は、しばしば主体性を放棄する安楽となります。集団に埋没したり、何かに熱烈に自己同一化したりして、主体性を放棄することは、楽であり快楽であるかもしれませんが、それは魂の成長にとってはひどく危険な罠でしょう。人間にとって、特に現代の人間にとって、主体性の行使というものは、普遍的な課題のように思います。
 「考えない安楽」「聖なる愚」に惹かれるのは、注意した方がいいのかもしれません。

 最後にインペレーターの霊訓から。
 《魂の肥やしは愛と知識である。》
 《より多くの知識! より深き愛! かくして不純物が一掃され、神に向いて高く、より高く向上して行くのである。》
 《常に捉われなき、探求心に燃えた魂であらねばならぬ。進歩性のある知識に憧れる者、洞察力に富める者であらねばならぬ。常により多き真理の光、より豊かなる知識を求める者であらねばならぬ。つまり真理の吸収に飽くことを知らぬ者でなければならぬのである。》


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