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崇める幸福?

2011-09-28 00:11:52 | 高森光季>スピリチュアリズム霊学

 正直に言って、私がよくわからないことがあります。
 それは「人を崇める」ということです。
 人を熱烈に崇拝する。その人のなしたこと、なすことすべてが正しいと思う。
 さらに行くと、その人の声をいつも聞きたい、その人の写真がほしい、その人が使った物がほしい、手が触れた物がほしい。

 今の時代、こういった態度の表われは、アイドルの追っかけに見られます。高じると(というかこじらせると)ストーカーになる。
 あれもどうもわかりません。
 恋愛の中で、そういう感情状態になるのはあると思います。というか、熱烈な恋愛というものはそういうものではないでしょうか(といってもピンと来ない人もいるでしょうけれど)。
 でも、メディアという虚像の中のアイドルに、そんな思いを抱くのは、いささか病気のような気がします。たぶん、現実と区別がついていないというのではなく、それは現実ではないと知りつつ、そういうことをしているのでしょうから。

 で、さらにわからないのが、偉人とか教祖とかに、そういう感情を持つ人がいるらしいということです。
 しかも、そういうことが伝統文化の一部に組み入れられている。
 たとえば、トリノの聖骸布というのがあって、磔になったイエスの遺体をくるんだ、そしてその顔がそこにプリントされている、という伝説を持つ亜麻布があって、キリスト教徒の熱烈な信仰を集めています(ちなみに、懐疑派の中にはダ・ヴィンチの制作物だという説もあるようです)。
 聖杯という伝説上の宝物もあります。イエスの血を受けた杯だということで、それを見つけ出す物語がいろいろ創られました。
 仏教では「仏舎利」信仰があります。原始仏教末期に、ブッダの遺骨への信仰が生まれ、その崇拝者集団と密接にからみながら大乗仏教が興ってきたとも言われています。仏舎利は、大きな寺が造られると必ずどこかから招聘されて収められるようで、日本のあちこちの寺院にも納められています。世界中の仏舎利を集めたら、何百キロにもなるかもしれません。
 まあ、無関係の人間からすれば、「だから何?」というものですが、崇拝の感情が、そういう「聖遺物」を生み出している。

 こういうものを軽蔑する人でも、偉人や教祖の言葉を、金科玉条として奉る人がいます。キリスト教の「聖書無謬説」もそうですし、諸宗教の祖師語録絶対化もそうです。
 追っかけのフェティシズムと宗教の祖師崇拝を一緒にするなと怒られそうです(笑い)。
 でも、「人を熱狂的に崇拝する」構造は、同じなんじゃないでしょうか。

      *      *      *

 私は尊敬する偉人はいます。
 でも、そういった人が使った物を崇拝するとか、その人の言葉をすべて金科玉条とするとかという気持ちが、どうしてもわかりません。
 たとえば、私はハリー・エドワーズという人のことをすごいと尊敬していますが、写真を飾ったり、関連するグッズを集めたりしようとは思いません。キューブラー=ロスに対しても同様です。(上記はあくまで例です、他にもいますw)
 私が病気なのでしょうか(笑い)。傲慢で生意気で敬慕や畏敬の感情に欠けているということでしょうか。時折、マジそうなのかと疑ってみたりします(笑い)。
 霊的存在に対してはどうか……うーん。インペレーター霊やシルバー・バーチ霊に畏敬の念は持ちます。でも、崇拝するという感じではないですね。逆に自らの守護霊に対しては、畏敬というより、もっと複雑な、頭を垂れるというか、甘えるというか、様々な感情を持ちます。日本の神社の神々や、産土の神には、畏れの念や慕う気持ちを持ちますが、崇拝しているかというとちょっと違うような気がします。ちなみに神=至高の創造主などは思ってみても仕方がないと思っているので、祈りを漠然とその方向に向けることはありますが、対象化して何かの感情を持つことはありません。

 で、結局私にはよくわからないのですが、世の中には、「人を熱烈に崇拝する」ことに救いを見いだす人がいるようです。
 そして、宗教は時折、この「熱烈な崇拝」を掻き立て、救いの感情をもたらすことがあるらしい。
 私にはよくわからないので、それがどういうものなのか、望ましいものなのかそうでないのか、よくわかりません。わからないまま、ちょっと考えてみます。

 シニックな心理学者はこう言います。
 「結局それは自己の“投影”なのですよ。追っかけるアイドルはアニマの投影。だから、現実にかかわれる存在でなくてもいい。場合によってはかかわれない相手の方がいい。現実の生身の相手だとしっぺ返しされないからです。偉人を崇拝するのは、“父性”原理とか“賢者”“老賢者”といった元型の投影ですね。いずれにせよ、内にあるものを投影しているわけです。」
 こういった考え方がどこまで正しいのかはわかりません。救い主イエスをわが夫とする修道女もいるそうなので、それは確かにアニムスとか父性の投影なのかもしれません。ただ、こういう内面還元主義だと神や高級霊や霊界も投影だとされかねないので、剣呑です。桑原桑原。

 投影があるにせよ、偉大な人を敬慕し、自らもそれにならって生きようとすることは、素晴らしいことのように思えます。そこにあるイメージは当人の内的なものであったとしても(従って歪みや狭さがあるにしても)、その崇高な部分でしょうから、それに向かっていこうとすることは、よいことのように思えます。
 また、偉人像には、その文化の理想も含まれているわけですから(心理学者なら「集団的理想」と言うかもしれません)、その理想をわがものとすることは望ましいことなのかもしれません。
 キリストが愛の人であったとか、ブッダが慈悲と叡智の人だったとか、そういう偉人像は、実態がどうであったかはどうでもよく、一種の理想としてあるのでしょう。

 でも、「熱烈な崇拝」とそれによってもたらされる救いの感情というのは、どうもそういうものとは違うような気がします。何か不思議なトリックのようなものがそこにある気がします。
 「すがる」こと、「つながろうとする」こと、それによる「救い」の感情?
 これは部分的な同一化なのか、所有感覚なのか。帰属意識(共同体幻想)なのか。それとも別の何かか。
 それとも人間には何かを崇拝したいという始源的な欲求があるのか。
 守護霊や指導霊と接した記憶が、そういうものにすり替えられるのか。

 ただ、私は、「崇拝」は、未熟な自己の産物であったり、安易な自己放棄であったりする場合が多いのではないかと思います。
 崇拝はそれだけでは何も生み出しません。仏舎利を拝んでも、仏の血縁に名前を載せてもらっても、祖師や教祖の肖像や遺筆に拝んでも、何の霊的成長も得られません。「ありがたい気持ちになる」「心の安心が得られる」と言うかもしれませんが、それは幻想です。その幻想に安住して自己成長を怠るなら、害悪ですらあります。

 宗教が、「群れる幸福」や「崇拝する幸福」をもたらすことは、ある程度はやむを得ないのかもしれません(それは非常にしばしば宗教に経済的恩恵をもたらします)。しかし、それは本質ではないし、しばしば危険なものでもある。そのことを宗教は(経済的損失であっても)しっかりと教えるべきなのではないでしょうか。

 《なぜわたしのことを善いと呼ぶのか。神おひとりのほかに善い者はいない。》(マルコ10:18)


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