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内なる神:霊学的瞑想論 ②霊学的に見た瞑想

2011-09-12 00:40:20 | 高森光季>スピリチュアリズム霊学

 脱魂でも究極的主体消滅でもない、瞑想というものはあるでしょうか。それはどのようなものでしょうか。そこで霊的世界や霊的存在と接触することはあるでしょうか。

 様々な「瞑想の求道者」がいます。特に最近は、上座部系のヴィパッサナー瞑想や、ニューエイジ系の様々な技法などが注目され、それを探究し賞揚する求道哲学者がたくさんいます。
 そういった探究とその成果を論評したり分析したりする能力や資格は私にはありませんので、私自身の個人的体験から得た考察を少し書いてみます。

 瞑想によって人は無意識の領域に入るとよく言われます。これはある意味で正しいでしょう。ただ、この無意識とはどういうものかというのは、問題があまりに厖大で、よくわかりません。
 そこには、確かに、「私が生まれる時から現時点までの体験のうち、意識から排除されたもの」があります。ある系統の心理療法で行なわれる無意識探査はこのことでしょう。この中には、自ら体験したものばかりではなく、家族や時代環境から受けた想念や感情も含まれています。
 ところが、私の心の奥には、そういった「現世の私の個人的存在を超えた何か」が含み込まれています。ユングの言う「集合的無意識」がこれに当たるのかもしれません。ユングはそれを「元型」とか「神話」といったキーワードによって表現しようとしたと思われます。
 しかし、実際のところ、そこにはもう少し具体的なものがあります。それは、「前世の体験記憶」「中間世の体験記憶」「類魂の体験記憶」です。この「体験」は、必ずしも具体的事実を含んだものではなく、感情体験や想念などが主体になることが多いようです。
 私の中には、「かつて生きた私」の感情や想念があります。人を殺したり人に殺されたり、権力を振り回したり権力に踏みしだかれたり、愛したり憎んだり、夢を描いたり絶望したり、といった様々な体験から生まれた感情や想念があります。これはかなり厖大な内容のものです。
 また、いわゆる「中間世」、つまりは「あの世」の記憶もおぼろげながらあります。これは一般的には前世記憶よりさらに強く遮蔽されているものですが、そのかすかな記憶・印象はあるものです。
 さらには、中間世で交流したり、現世で超常的な方法で交信し合った「類魂」の体験記憶――特に想念や感情――も、非常にかすかなものではあれ、含まれているでしょう。
 私が瞑想によって意識の奥に踏み入っていく時、私はこうした様々な想念や感情を「再体験」することになります。そして同時にそこには「知識」「知恵」「叡智」といったものも含まれています。
 こうしたことを「再体験」することは、理想的に言えば、私の想念や感情をより豊かにし、また知恵もより複雑で高尚なものにすることになるでしょう。

 そしてここに、重大なポイントがあります。
 それは、誰しもが「中間世」の記憶を持っているということです。(「今回が初めての人」はひょっとしたらそれほどはっきりした記憶はないのかもしれませんが、よくわかりません。)
 人は死ぬと、あちらの世界に行きます。そしてなにがしかの活動をした後、再びこの世に生まれてきます(多くの人の場合)。そこで、人は(おそらく多くの人は)、「超越的存在」と出会っています。「守護霊」「指導霊」「本霊」といった、われわれから見れば神に近い存在と。
 つまり、あからさまに言えば、ほとんどの人は、「神の御使い」「諸菩薩・諸天」と、“会って”いるのです。
 中間世(つまり「あの世」)の記憶は、前世記憶よりはるかに強く隠蔽されます。ですから、われわれは通常、「自分がかつて、超越的存在と接触した」という記憶はありません。
 しかし、深く心の奥に分け入っていけば、それはかすかな形ではあるものの、出てくるようです。

 私は瞑想の中で、おぼろげではありますが何か強烈な光のような存在と対峙する感覚も体験しました。地上を足下に見下ろす高い峰の頂で、底のない空に向かって心を拡げると、そこに何か大きな存在がいることを感じました。
 それはどこか懐かしい感覚でもありました。
 確かにこれは、どこかで体験したことがある……

 一部の神秘家が、「神(仏)は内にある」「天国(浄土)は内にある」というのは、一面ではこのことを言うのではないかと思います。私たちの内に、超越者と会った体験がある。この世ならぬ光と色彩に満ちた世界にいた体験がある。

 それは単なるイメージに過ぎないのではないかと言う人もいるでしょう。心が描いたファンタジーだと。
 しかし、心というものは、案外しっかりしたものです。自前で創作したものと、そうではないものとは、うまく説明できないにしても、違うのだとわかるものです。

 「でっち上げではないにしても、それはおぼろげな記憶に過ぎないのではないか、それを想起したからといって、今の私が神(仏)や天国(浄土)に出会ったことにはならない」と言われるかもしれません。
 それはそうです。けれども、そういった記憶ないしイメージの中に深く入っていくと、どうも何かが起こるようです。
 魂の波長が変わる、そしてそこに通路が生まれる。
 実際、そういう場面で、私は「今現在の情況」に対応したメッセージをもらったことがあります。
 単に記憶の再体験ではない、そうした境域にいる時、遠くから、高くから、確かに何かの働きかけがある。

 想起が現在進行の現実になるという不思議な出来事は、催眠による中間世想起の実例でも起こることが報告されています。
 稲垣勝巳氏の『前世療法の探究』および続編『生まれ変わりが科学的に証明された!』では、里沙さんというクライエントが、史実と符合する過去生を語ったのみならず、過去生の言語(ネパール語)で会話するという、驚異的な事例が報告されていますが、そこでは、クライエントが中間世の記憶を想起している際、「守護霊」が現在形で話し出すという場面があります。そしてさらに驚くべきことは、守護霊がクライエントに憑依し、セラピストと会話をするということも起こっています。
 つまり、中間世を想起し、「光の存在が見えます」というような「記憶を語る」のではなく、「今、光の存在がこう言っています」という「現在形の会話」がなされているのです。
 これはきわめて特異な事例です。しかし、中間世=あの世を想起することで、あの世に現在形でつながるということが(稀にでも)あるということです。(このことに関しては、TSLホームページの「死後存続証明の新たな展開」及び「『前世記憶』の真偽を検証した日本初の試み」lを参照してください。なお、「中間世体験を繰り返すこと自体に治癒効果がある」とか「中間世で体験される意識状態は非常に高レベルのものである」といった指摘も興味深いものがあります。)

 催眠によって中間世体験に入ることができるのは、なかなか稀なことのようです。
 まして、瞑想によって――自己催眠によって――その体験を得ることは、かなり困難なものかもしれません。
 けれども、そのかすかな記憶を呼び戻すことはできる。その状態の「魂の波長」に自らを近づけることはできる。
 そしてその時に、われわれは、現在進行形として、「光の存在」からの働きかけを感じることができる。
 霊学的に見れば、瞑想とはそういうことなのではないでしょうか。


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1 コメント

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一部の人だけの「体験」? (law)
2011-09-12 22:54:47
光を見たり,中間世に行ったり…経験したのはごく一部の人だけですね。万人が体験していないこと,また,再現が難しいことなどを根拠にそれらを夢や幻想だ,現実ではないなどと簡単に否定する学者も多いです。

>催眠によって中間世体験に入ることができるのは、なかなか稀なことのようです。まして、瞑想によって――自己催眠によって――その体験を得ることは、かなり困難なものかもしれません。けれども、そのかすかな記憶を呼び戻すことはできる。その状態の「魂の波長」に自らを近づけることはできる。

…その通りだと思います。とすれば,
被験者その他が,瞑想によってある程度意識をコントロールできるよう訓練しておくことは,ビーカーや試薬を用意してから実験を始めるのと同じくらい当然必要な事前準備と言えますね。自分がやってみたが,そのようなことは起きなかったから「ない」と簡単に否定する人は,その準備を怠って自ら「実験」の失敗を招き,結論も間違っている,そんな状態と言えませんか?

瞑想によって内観する。自分の波長をコントロールできるようになる。物質的に,精神的に,また霊的に(実はこの3者説よくわかりません。魂と肉体ならピンと来るのに,霊的に目覚めてないのでしょうか),自分の進むべき道を開くきっかけを作ってくれるのが静寂の時間,ということでしょうか。
こういうことにも,かなりの苦難に遭わないと気づきませんが,大事な「綱」だからこそ二度と離さないように思い知らされるのでしょうか(苦笑)。
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