スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

内なる神:霊学的瞑想論 ④内面化の陥穽

2011-09-16 00:04:43 | 高森光季>スピリチュアリズム霊学

 「内的体験」の最大の問題は、他者に伝えることができず、結局それに関して議論や反論といったものが不可能であることです。
 同じ個人がつむぐものであっても、「思想」というものは、一定の公共性を持ちます。それは前提・主題・合理的展開・傍証といったものを提示します。他者はそれを検討することができるわけです。
 しかし内的体験は、そういったものから「非連続」的に体験されるものです。ある主題を詰めていって、そこから合理的につむぎ出されるものではありません。むしろ、突然の到来、飛躍、非合理性というものが際立つことが多いものです。そして、それの表現も、体験が深く高いものであればあるほど、非合理的的なものになるようです。
 ですから、内的体験について、他者が論じたりすることは基本的にはできないし、公共の場で議論の対象にすることもできないでしょう。本質的に、他者にとっては無意味なのです。また、当然のことながら、複数の人の内的体験を比較して、どちらが深いとか有意義だとか言うこともできません。
 空海は室戸岬(?)で虚空蔵菩薩求聞持法を修した際に、「明星が口に飛び込んだ」と言います。黒住宗忠は病弱な心身を鍛えるために太陽に向かって祝詞を唱えていたら、太陽が腹に入ったと言います。こういう事例はあまたあるでしょうが、当人たちはそれ自体については何も述べていません。体験自体は述べられないし、述べても意味がないわけです。他者がそれを論じても意味はないし、そういった体験のどれが深いかを議論しても意味はないでしょう。

 「人間の内的体験には、共通する要素があるし、高低・深浅もある。内的体験、特に瞑想における体験に関して、われわれは地図を持ちうる」という人もいると思います。
 内的体験は当人の広大な内的世界の中で成立し、その内的世界は非常に多彩であるがゆえに、ある内的体験だけを取り出して客観的に評価することはできません。しかし、たとえば、「無我(非想非非想)」を求めるという前提に立ち、仏教的世界観をしっかりと持ち、徹底的な修行生活をしている中で、というふうに要素を限定していけば、その瞑想体験がどのレベルに位置しているかは判断できる。――そういう理論は成り立つかもしれません。
 おそらくそういうことはあるのでしょう。そして仏教を始め、世にある瞑想行法指導は、こうした考え方(前提や目的や世界観はそれぞれ違うでしょうが)に基づいているのでしょう。それを否定するつもりはありません。
 いささか疑義を生じるところは、人間の精神活動をそうやって限定することが、果たして望ましいことなのか、ということです。基準・標準を設けることが、逆に瞑想の中で自由に働く魂を抑圧にならないだろうか。特に、一生をかけてそれをやることで、魂の成長が歪んだものになったりはしないだろうか、と。もっともこうした問いは、宗教(およびそれに準ずるもの)に常について回るものなので、簡単には論じることはできないでしょう。

 内的体験を重視し、極端に内面化を進める宗教の問題点は、「内閉」に陥り、他者や現実が存在しなくなるということでしょう。
 すべてを内面化していくことは、単純に言うと、すべてを「私(観察者)」に起こった「事」だと捉えることになります。苦しみも愛も、「私」に起こってくる「事件」であって、そこに対象としての「現実」「存在」があるかどうかは、どうでもよいことになります。そこには「他者」も存在しません。他者というものは常にわれわれの認識や安定性を破壊するものであり、われわれ自身をいやいや相対化させる厄介なものですが、内的体験世界では、それは単に「刺激」に過ぎないものになります(わざとこのように捉え直すことで自己の心の理解を深める心理療法もありますが、それは一時的な対症療法です)。
 この転換は、けっこう頻繁に使われます。「仏(神)はわが心の内にある」「浄土(天国)はわが心の内にある」という言説は、神秘的体験の一表現としてではなく、現代の宗教の諸場面でさかんに発せられます。「浄土というのはな、何か遙か遠くにあるものではないぞ。そなたの心の中にあるんじゃ。そなたの心が澄み切った時、そこに現われるのがお浄土じゃ」という具合に。
 他界としての天国・浄土、超越的存在としての仏菩薩・神・天使、それらはもはや「存在」「他者」ではなくなります。「私」がそれを見、それを感じられれば、それでいいのです。その時、「私」の心は救われる。「私」の「存在」「現実」が救われるのではなく。(これ、へたをすると根性論になりますね。「つらいと思うからつらいんだ、根性を出せ」とw)

 こうした内面化は、人の精神の営みとして必要なものであり、時には「治癒」「救済」効果ももたらします。けれども、それに傾きすぎると、「自閉」を引き起こします。
 それは、他者とのやりとりを不可能にします。議論や反論が不可能になります。めざすのは「自己救済」のみとなり、他者への働きかけが消滅します。
 仏教はそうした危険性を孕んでいます。仏教は「解脱(自らの輪廻超脱)」を求め、内的観察・内的体験・内的認識を最重要な営為とするからです。
 これは実に奇妙なパラドクスです。「無我――自己を無と観ずること」をめざしていた探究が、いつの間にか「独我論――我しか存在せず」へと変身してしまうのです。
 (ただし、実際の――現実の日本の――仏教は、こうした「内的探究」というより、組織・システムへの参入・適応であるのかもしれません。)

 前にも触れましたが、こうした内面化による「存在」の消去は、現代の唯物論世界の中で宗教がつい取ってしまう「断崖への道」でもあります。私たち現代人は「確かに存在するのは物質だけ」と思わされています。かつての宗教が扱ってきた「見えない世界」「超越的な世界」は、タブー化されます。そこで「存在するか否か」という問い――異端審問官の問い――を回避するには、「存在するか否かは関係ない」ということにするのが解決策になります。「仏(神)や浄土(天国)が存在すると言っているのではありません。そういったことは私たちの心の内面の問題なんです」というわけです。
 けれどもそれは、宗教の自殺ではないでしょうか。

 内面化、内的世界の探究、内的体験の追求それ自体を否定しているのではありません。それはとても重要なこと、必須のことであり、それなくして信仰は成り立たないでしょうし、自己の霊的成長も阻害されるでしょう。
 ただ、内的体験還元主義は非常に危険なものであると思います。われわれは外界の「存在」、「他者」を否定することはできません。内的探究の際はそこから離れますが、われわれは常にそこに帰って行くことになります。世界や他者を「虚仮(こけ)」と見る立場は、「存在」である高級霊界に住む「他者」である高級知性から見れば、逆に「虚仮」とされるのではないでしょうか。

 スピリチュアリズムでは、瞑想(静思)は、自らの魂の声を聞き、その奥に守護霊(別に神と言ってもかまわないでしょう)の囁きを聞くこととされます。それだけのこと。特別な技法も、段階論もありません。そこで何を見たと騒いだり、それを他と比べてもしかたがない。
 もちろん、自らの心を内省し、無用な我欲を鎮めることも、勧められます。あまり執着しない範囲であれば、自らの人生や、過去世の人生や、類魂の人生を再吟味し、その意味を探ることもいいのではないかと思います。
 ただ、それは「専修」すべきものではありません。われわれは肉体を持ち、様々な欲求を持った人間として、他者とぶつかりながら現実を生き、それによって魂を成長させることが課題です。
 ありていに言えば、われわれ(ごくわずかな霊的達人を除いて)は幼稚園生なのだから、世界の究極を知ろうとか、知ったとか思わない方がいい。それよりは、じたばたして、楽しんで、自分を成長させることを考えた方がいいよ、ということでしょう。
 現実を離れるな、他者を消し去るな、それがスピリチュアリズムの警告だと思います。


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12 コメント

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「成長」のために (law)
2011-09-17 22:10:12
>現実を離れるな、他者を消し去るな、それがスピリチュアリズムの警告だと思います。

他者,自分以外の人間だけでなく全生物に対して奉仕できている毎日でありたいです。自分が自分を成長させたいと願っている。ここは個人主義?利己的?で仕方ないと思います。でも他者が助けさせてくれたからこそ,今自分が成長できたんだと逆にその他者に感謝すべきですよね?

「現象」ばかりを追う心霊家とその信奉者はまるでおもちゃがないといられない子供のようです。あまりにも多い。物的豊かさばかり求める風潮もうんざり。傲慢な人間も多い。
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思うこと (今来学人)
2011-09-18 12:46:32
高森さま、
私自身、興味深いテーマで面白く読ませて頂いております。
悟りが空性の体得と同義とすることが許されるならば、少なくとも文献学的には空性と慈悲との間に微妙な緊張関係があることは、この前紹介したシュミットハウゼン先生の指摘の通りです。しかしチベット仏教においてはその関係は矛盾しないようです。以下はダライ・ラマの言葉です:

慈悲は持戒のより深いレベルを達成するための鍵となるものですが、でも自分自身が悪しき態度に纏われているとき、どうして他者を助けることができるでしょう。自分自身がよりよき態度を保つことなく、大勢の人を助けることは困難です。
たとえば、読み書きの出来ない人たちの手助けをしたいならば、あなたに教養がなくてはなりません。同様に、生きとし生けるものをことごとく助けたいと思うなら、仏陀の悟りを自らのものとしなくてはならないでしょう。なぜなら仏陀は人々を救うために必要なすべての性質-精神的な発達を遂げるためのあらゆる技術に関する知識と人々の感情や関心や性癖等々を見通す智慧-をそなえているからです。
もし他者への気遣いをする慈悲の実践を通して感動することがあれば、それは新しい価値観が定着したときです。こうした価値観を得るために、これから悟りに向かうための儀式を実行して、心を耕していくことにしましょう。(中略)「無限の宇宙に遍満する生きとし生けるもののために、私は無常の悟りを獲得しよう」と。(『ダライ・ラマ 実践の書』pp. 100-101)

今に生きる仏教だからこそ、このような発言が可能なのだと思います。実践を重視する私(愚僧)にとって、このご指摘には頭が上がりません。

なお独我論的傾向は確かにありますが、例えば唯識の文脈では「入無相方便相」という概念を持ち出し、最終的には自分すらも存在しない(解消してしまう)と説明しております。

なおテーマとなっている瞑想ですが、ダライ・ラマ(おそらくチベット仏教に基づく)によれば、何種類の瞑想があるようです。別スレで。
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何種類かの瞑想 (今来学人)
2011-09-18 12:50:01
・瞑想の基本型は二つ。(1)分析的瞑想、(2)心を安定させる瞑想。(1)はあるテーマについて論理的に考えて理解できるまで分析するもの。たとえば諸行はなぜ無常なのか、いかに諸事象は原因によって生まれ、また、いかに瞬間ごとに滅すかということをつぶさに振り返って熟考する。(2)はたとえば無常というテーマなり対象に向けて心を固定するというもの。
・このほか(3)主観的瞑想と(4)客観的瞑想に分類する仕方もある。(3)は新しい視野や態度、あるいは拡大した視野とか強固になった自らの態度を、心の中で鍛えることを目的とする。信仰心を養うことはこのタイプの瞑想の一例。信仰心は精神を集中して向ける対象ではなく、瞑想によって養われる態度だから(慈悲心を養うことも主観的瞑想になる。その目的は瞑想する自らの意識を慈悲深くしようとすることであって、慈悲をひとつの対象として、それについて瞑想することではないから)。(4)はたとえば無常といったテーマについて、あるいは仏陀の金色の体のような対象について瞑想すること。
・願望成就を求めて瞑想することもある。たとえば仏陀の智慧と慈悲で満たされたいと願って瞑想すること。
・観想の瞑想(さらに進むと)。この瞑想は自分が実際にまだ持っていない諸特性を持っているかのように心に描いて瞑想する。たとえば本尊瑜伽という瞑想法は、自分の体が智慧の光からなっている理想状態にあると心の中に思い描いて瞑想する。
(『実践の書』pp. 119-120)

猊下によれば、この実践によって心は鋭敏になり、記憶力も改善される。また日常生活において怒りの対処法として役立つ。またもうひとつの恩恵として、体と心が密接に関係していることがわかるとされております。しかしこればかりで悟りに至れるとは述べていません。
悟りに至るには(a)土台、(b)土台に築かれる道、(c)道の果というシステム(詳細は略)を理解するとともに、多くの原因と条件、すなわち正しい理解、功徳の積集、障害の克服によって悟りを成就するということを忘れてはならないと注意しております。悪しき行為を浄化しようとしなければ、単に瞑想に励んでも悟りを得ることはできない、と。それゆえ必要とされる条件を満たしていなければならないとのことです。その条件は単にいくつかの回数に達すればよい、または三年の山篭りをすればよいということでもない。そうではなくて確実な悟りを成就するまで功徳を積み、障害を除去せねばならない。来世の生を改善するという目標をもって全生涯をかけて(輪廻が前提とされています-今来注)。
(『実践の書』pp. 207-208)
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Unknown (高森光季)
2011-09-19 02:25:36
>lawさまへ

自己の成長を欲することは利己的というものではなく、人間の責務だと思います。
他者に奉仕したい、感謝したいという心情は素晴らしいですね。

>今来さまへ

 ご丁寧なご教示、ありがとうございます。毎度、大変嬉しう存じます。

 《慈悲は持戒のより深いレベルを達成するための鍵となるものです》
 この教えは初めて聞きました。不殺生戒ならばわかりますが、その他の戒もそうなのでしょうか。勉強不足でよくわかりません。もしご存じでしたらご教示ください。

 《生きとし生けるものをことごとく助けたいと思うなら、仏陀の悟りを自らのものとしなくてはならないでしょう。なぜなら仏陀は人々を救うために必要なすべての性質――精神的な発達を遂げるためのあらゆる技術に関する知識と人々の感情や関心や性癖等々を見通す智慧――をそなえているからです。……「無限の宇宙に遍満する生きとし生けるもののために、私は無常の悟りを獲得しよう」と。》
 目標の高貴さに敬服いたしますが、いささか異存もあります。この点は改めて別エントリで。

 《なお独我論的傾向は確かにありますが、例えば唯識の文脈では「入無相方便相」という概念を持ち出し、最終的には自分すらも存在しない(解消してしまう)と説明しております。》
 こういう仏教の論理がわからないんですねえ(笑い)。自分が存在しないというのは、脳機能の停止ですか、などという悪質な冗談はともかくとして、「実践的に」「現実的に」どういうことなのでしょう。よく教学者は、「煩悩も我欲も消し去り、自由でとらわれのない人格として働くことだ」「我は消滅し、如来の叡智が働いている」といった言い方をしますが、凡夫にはちょっと理解が及びません(笑い)。

 瞑想の種類や分類は、いろいろな人がいろいろなことを言っているようで、確かにいろいろあると思います。大きなものとして「熟慮省察」((1)と(4))や、「心的状態の獲得と維持」((2)と(3))はあるでしょうし、「イメージ(想念)瞑想」(「願望成就」や「観想」)もあるでしょう。ほかにも記憶探索、能動的想像、感覚集中など、いっぱいあるでしょう。で、それぞれに効能があると思います。
 で、ご指摘のように、瞑想それ自体は「さとり」ではないわけですが、ご高説だと、「悪しき行為を浄化し、功徳を積む」などの行為を伴わないと、「さとり」には行けないということでしょうか。
 愚生の理解では、戒を実践しつつ「瞑想」を深く探究することで「さとり」が獲得され、「さとり」によって「八正道」を行ないカルマを弁済すれば、「輪廻超脱」が可能になる、という大まかな構造になっているのではないかと思ったのですが、ここで言われている「さとり」は「瞑想の究極地点」ではなく、行為も完成された状態(=輪廻超脱がなされた状態)ということでしょうか。
 また、
 《確実な悟りを成就するまで功徳を積み、障害を除去せねばならない。来世の生を改善するという目標をもって全生涯をかけて》
 というのがちょっとわかりにくいのですが、「確実な悟りを成就」しても「来世」はあるのでしょうか。「功徳を積み、障害を除去」していくと、来世の生は改善され、そこでまた「功徳を積み、障害を除去」していき、それを繰り返して初めて「さとり=輪廻超脱」が達成されるということでしょうか。

 なお、「内的体験は現実の変化を保証しない」という表現をしたのは、至高の神秘体験であれ、一回ですべてが変わるということにはならないのではないかということを言いたかったわけです。
 禅宗に「悟後のさとり」という言い方があるようですが、高次の精神状態を繰り返し体験し、それを心身に刻み込んでいくことで、「自己」は変わるのではないかということです。
 神秘体験を求めて瞑想する人が多く、しかもちょっと何かを見ると大騒ぎする輩もいて、そりゃちょっと違うぜよ、と。
 まあ、このあたりは難しくて、ケースバイケースということもあるかもしれませんし、よくわかりません。
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Unknown (今来学人)
2011-09-19 03:52:54
ご質問ありがとうございます。
安易に答えるわけにはいかず、ダライ・ラマの文脈で答えなければいけないため、分かる範囲で改めて答えさせていただく予定ですが、少し時間ください。

「入無相」は私もその点が気になるところです。昔テキストを読んでいたときはそのことがあまりよく分からなかったんです。正直言うと。また改めて読むと違う発見があると思います。今現在の私の考えでは「私」は縁起(相互依存)的な「私」です(ダライ・ラマの影響(笑))。
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失礼を省みずにごめんなさい (JIJIRO)
2011-09-19 15:32:52
議論の中に割りこむような形になり申し訳ありません。
皆さんはすでにお訪ねのことがあるかと思いますが、雲黒斎という方の書かれている「あの世に聞いた、この世の仕組み」という、すでに内容の一部が出版もされているブログがあります。http://blog.goo.ne.jp/namagusabose/

その中で一年に亘って書き綴られていた「極楽飯店」という物語の最終回が最近発表になりました。今まで飛ばし読みを続けてきて、多分読まなかった章もいくつかあったと思っていますが、今回これを機会に全章をいつものキンドルに流し込んでじっくりと読ませて頂きました。

書かれていることの一つ一つが正しいか正しくないかということはわかりませんが、私はこの雲黒斎さんという方の、なんとしても読者に自分が知ったことの詳細を理解して欲しいという熱意のこもった語り口に惹かれてしまいました。

そして、特に後半部の類魂やカルマやその他に関する説明が、私自身がキューブラー・ロスのスレッドでコメントした当時の状況に平仄がぴたりとあってくるのです。
私はもちろん雲黒斎さんとはなんの関係もない人間ですが、題材が題材ですので常連の皆さんの何かの参考にしていただければと書き込ませてもらいました。
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Unknown (今来学人)
2011-09-19 20:21:11
JIJIROさま、ありがとうございます。とりあえずまた先の続きをさせて頂きます。すんません。時間がある限り必ず読みます。

高森さま、私が対象にした本の目次を挙げておきます。

ダライ・ラマ実践の書
目次
1 基本
第1章 三段階の実践方法
2 持戒の実践
第2章 苦とは何かを理解する
第3章 苦はどのように起こり止滅するか
第4章 他者に危害を加えない
第5章 他者を助ける
第6章 悟りに向かう
3 禅定の実践
第7章 心に集中する
4 智慧の実践
第8章 生あるもの並びに事物はどのようにして存在しているか
第9章 中道
第10章 心と心の深い本性
5 密教の実践
第11章 本尊瑜伽
6 実践のプロセス
第12章 悟りへの道

いざダライ・ラマ(以下、猊下と略)の言及を探るべく、まずは高森さまのご主張をもう一度読み直してみたのですが、私自身の印象としては高森さまの結論と、猊下の言っていること(また私自身が考えていること)にはそうたいした差はないように思いました。「一回ですべてが変わるということにはならない」「繰り返し体験し、それを心身に刻み込んでいく」というお考えなどです。以下は引用:

心をはぐくむことはきわめて多くの内的な原因と条件に依って初めて可能です。それはちょうど宇宙ステーションが、どんな最小の部品に対しても試験を重ねてきた幾世代にもわたる科学者たちの仕事に負うているのと似ています。宇宙ステーションも悟りの心も、一朝一夕には完成しません。(中略)しかしながら、たくさんの人の手で作られている宇宙ステーションとは異なり、心は自分だけで育まなくてはなりません。他の人たちがあなたのために結果を出してくれるということはありません。誰か他の人の精神的発達についての青写真を読んでも、それがあなたの悟りに役立つことはありません。(『実践の書』pp. 24-25)

その上で猊下は持戒、禅定、智慧という順序での実践的修行を説明していきます(目次に対応しています)。
そのうちこの持戒についてですが、猊下は(1)個の悟りにつながる持戒、(2)他者への気遣いという持戒、(3)密教の持戒というように分類しております。そのうち(2)が関係していると思われます。(2)は自己中心的に陥る心を抑制するということ。自己愛を絶つこと。悪しき身体的行為(殺生、偸盗、邪淫)、言語的行為(妄語、両舌、悪口、綺語)をも絶つということ。猊下は持戒の実践が涵養と忍耐をはぐくむ(p. 72)といいます。「慈悲を実践する者にとって、敵は最も重要な教師の一人である。敵なくして寛容を実践することはできず、寛容なくして健全な慈悲の基礎を築くことはできない。それゆえ慈悲を実践するためには、敵をもたなければならないのである。」(『実践の書』pp. 78-79[シャーティデーヴァ『入菩薩行論』の引用])

「さとり」、「功徳を積み、障害を除去」について
・猊下によればこの過程が伴われないと「さとり」へは行けないということだと思います。
・悟りを成就すれば来世はあるのか、ないのか。また「さとり」とは行為も完成された状態なのか。これについては『実践の書』では明確に触れていないと思います。他の著書を精査せねばなりませんが、私の印象では猊下がそういうことを言うのかは微妙なところだと思います。『実践の書』の目的は「仏教の立場から生あるもの並びに事物がどのように存在しているか、ということについての誤った認識を克服するための実践的な枠組みの中で、心の平和と、はるかに気高い慈悲の能力を獲得するための仏教独自の手法」(分かりにくい訳!-今来注)を説明することだとされています。

質問
・なお八正道についてですが、これは悟り以後の「八正道」ということでしょうか。一般的には悟るために道諦(四諦のひとつ)としての八正道を実践するとはよく聞きますが。なにか典拠となるものがありましたらご教示ください。
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再度ごめんなさい (JIJIRO)
2011-09-19 21:08:33
初めまして。こちらこそ本当にせっかくの議論の流れを断ち切るようなコメントを書き込みまして申し訳ありません。

このブログ自体が、私たち一般的な凡人に向けて発信されているものではないことは百も承知の上でのコメントになるのですが、率直に言わせてもらって高森様と今来様との意見交換は文字通りの「神学問答」のように私には感じられます。

理屈(ないしは理論の裏付け)って、そんなに大切なものなのでしょうか。
私にはお二方の知識や能力は、今現在の混沌とした状況の中でこんな格好で開示されるものではないように思えます。もっと大きな何かが期待されているように感じられるのです。
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Unknown (今来学人)
2011-09-19 22:23:06
こちらこそ申し訳ありません。最終的には高森さまが判断してくださるものです。

私は仏教徒でありながら、スピリチュアリズムに可なりの影響を受けたもので私は単に自身の興味のある範囲(いかに私の信心にスピリチュアリズムを組み込んでいけるか)で質問させていただいております。それに真摯に回答してくださっている高森さまには非常に感謝しております。

分かりやすくできればよいのですがこれは私の課題です。。
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ありがとうございます (高森光季)
2011-09-20 03:02:37
うわあ、ちょっと離れておりましたら、たくさんのコメントをいただきまして、
びっくり、かつとても嬉しく思います。ちょっととまどってますが(笑い)。

ええと……まず、今来さまへのレスから。

「さとりは一発体験ではなく、繰り返し修していく」というのが、標準的な考えなのだったら、別に私ごときがあれこれ言い立てる必要もなかったということですが、私の誤解なのかもしれませんがけっこう仏教徒の中には、「さとりは至高体験で、それを獲得できたらすべてOK」みたいに言う人がいるのではないかと思ったので、書いてみたわけです。いわゆる「頓悟」主義というのは、あるのではないでしょうか。たとえば「即身成仏」というのも、素人にはわからないことでしょうが素人の印象では、「頓悟」的に捉えて、「修行していくとある時そういうふうになる」みたいに思えてしまうところもあります。

持戒の三つの分類ですけど、恥ずかしながら、私は(1)の個のためのものという理解しか持ち得ていませんでした。(3)はもちろん非密教徒にはわからないものでしょうが、(2)の「寛容、忍耐、慈悲」のための持戒というのは、ご教示いただいて、ぽかんとしています(笑い)。
このあたりが、前からぐちゃぐちゃ言っているわけですが、まだよくわかっていないところで、ブッダの生涯や初期仏教での「自己救済――さとりの追求」と大乗の「慈悲」との間に、どうしてもギャップを感じているわけです。もちろん時代も状況も違うから違って(発展して)当然なのでしょうけれども。初期仏教の「さとり」は、どうもやはり「非実在性の認識」を始めとする「智慧」の獲得およびそれに伴う執着の断滅ということだったのが、大乗では「慈悲といったことも含まれないと真の智慧ではない(輪廻超脱できない)」とされたのか(だったらそれはなぜか)。そのあたりの理論化がどうなっていたのか。……勉強不足です。

「功徳を積み、障害を除去しないとさとりへ行けない」という説ですが、これ、結局、「さとり」をどう定義しているのかという問題になると思うのです。「さとり」は本当に様々に使われていて、「①瞑想によって得られる至高体験」なのか、「②世界や生への真なる認識」なのか、「③真理獲得・無明断滅による生き方」なのか、それとも「④輪廻を超え出たという保証」なのか。ブッダの菩提樹下の「さとり」はその全部だったと主張されるのかもしれませんけれども、輪廻の理論から言えば、「②真なる認識」を得て「③無明を断滅」しても、前世からのカルマの負債がありますから、そのまま「輪廻超脱」にはならないだろう、と。「功徳を積まないとさとりへ行けない」という場合の「さとり」は「輪廻超脱」といった意味のように受け取れます。ただ仏教は、いろいろな意味で「さとり」という言葉を使いますから、「さとった後、功徳を積んで、その後に輪廻を超える」という考え方もあると思います。「定・慧」と「涅槃」はそういうふうに本来区別されていたのがごっちゃになっていやしないか、とも思うのですが、そのあたりはよくわかりません。

「八正道」ですが、ちょっとこれは不正確な(いいかげんな)表現をしてしまったので、そのままの典拠はたぶんありません(そもそも「四諦八正道」自体、ブッダの直説ではなく後世の整理だという説もありますね)。言いたかったのは、ブッダの生涯を見る限り、「さとり」の後に「八正道」の実践がなされていて(前世でのことは別として)、「八正道」は「さとり」(定・慧)のためにあるのではなく、「輪廻解脱」のためにあるとブッダは捉えていたのではないかと。まあ、これは私が勝手にそう思ったということなのかもしれず、それを論証する資料が今出せませんが。
①や②の意味でのさとりのためには、別に八正道は必要ではないでしょう。違いますでしょうか。
まあ、こういった考え方自体が分析的過ぎると批判されるかもしれませんが。

毎度、こういう正規の仏教教育も受けていない乱暴者のご質問にお答えいただいて、実にありがたく存じます(でも、こういうcultivateされていない者の疑問の方が刺激的じゃありませんか?www)。
私自身、仏教には親和・共鳴するところがありまして、いろいろと不満憤懣は持ちますが(やりすぎ?w)、仏教のよいところを見いだしたいと思っています(マジですw)。こういう形で教えをいただくことは、非常に嬉しいです。

あ、もう一つ、ちょっと「人は人を救えるか」で言いそびれてしまったことがあったので、また仏教批判になりますが(またかよw)、書いておきます。
 スピリチュアリズムが「人間中心主義」くさいと批判されることがあり、それは違うと前に述べましたが、私には仏教こそ「人間至上主義」ではないかと思ったりもします。
 仏が《精神的な発達のためのあらゆる技術・知識と人々の感情や関心や性癖等々を見通す智慧を持ち、生きとし生けるものをことごとく助ける》というのは理解できますが(内面の仏ではなく、外に存在する仏が、ということですが)、人がそれになれる(一生や二生や三生で、また肉体を持った人間として)というのは、あまりに人間を過大に捉えていないでしょうか。

      *      *      *

>JIJIROさまへ

理屈っぽい話ばかりで、すみません(笑い)。
でも、私にとっては、こういったことは必要で有意義で、また楽しいものでもあるので、どうかご寛恕をお願いします。
「理屈」(「へ」がつく?w)「神学」とのご批判は、そう感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、私自身はそういうもの(空理空論)にならないように常に自戒はしているつもりです。そして、そういうふうに思われてしまう面はあっても、こうした知的・理論的な検証や探究は、必要なものだと思っています。その理由は、改めて別のエントリで書きます。
このブログは「限定された人」に向けて書いているわけではないのですが、どうしても時間やスペースの問題で“はしょった”表現をしたりしてしまうことがありますし、私自身の能力不足――「豆さ」や表現力の不足――もあって、「わからん」と思われてしまうことは多いだろうなと自覚はしております。
平易で心に訴える表現、シルバー・バーチやホワイト・イーグルのような優しく心にしみる言葉が伝えられるのならいいのかもしれませんが、私は高級霊でも霊的指導者でもなく、それどころかいまだに罪も悪も持っている愚人ですので、そんなことはできないし、したら冒涜・嘘になるでしょう。
「もっと大きな何か」をせいというお叱りは甘んじてお受けいたしますし、何かできないかなと時折は反省はしてみているのですが、菲才の身には、なかなか難しいです。精進に努めます。
(あ、ホワイト・イーグルはもうお読みですよね。私自身はああいう優しい語り口が好きなんですけど。)
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