スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

人は人を救えるか

2011-09-19 03:20:48 | 高森光季>スピリチュアリズム霊学

 「救い」というのは広い言葉で、なかなか難しい問題です。
 ここでは物質的・肉体的な領域のことはとりあえず除きます。
 人を精神的に救う、霊的に救う。それはどういうことでしょうか。
 私もよくわかりません。

 悩んでいた時に、ちょっとした言葉を聞いて、吹っ切れた。落ち込んでいた時に、ちょっとした善意をもらって、前向きになれた。
 こういうことはよくあります。
 あるいは、心理療法家によって、長年抱えていた悩みや神経症状が消えた。
 これもよくあります。
 でも、これ、「救い」ではないですよね。
 宗教的な文脈で言う「救い」は、魂の救済ということを言うのでしょう。
 でも、これ、実はよくわからない。
 皆さん、おわかりですか?

      *      *      *

 はっきり言えば、スピリチュアリズムは、「救い」ということを言いません。
 ましてや、「人が人を救う」という考え方は“ない”と思います。
 ごく例外的な事例を除けば、基本的に「自分を救うのは自分」だからです。

 《神によりて特に選ばれし数少なき寵愛者――そのようなものはわれらは知らぬ。選ばれし者の名に真に値するのは、己の存在を律する神の摂理に従いて自らを自らの努力によりて救う者のことである。》(モーゼズ/近藤千雄訳『霊訓』第8節)

 《人間は自らの将来を自ら築き、自らの性格に自ら押印し、自らの罪悪の報いに自ら苦しみ、自ら救済して行かねばならぬということである。》(同、第31節)

 《人間はいつかは必ず自己革新の過程を経なければならないものです。自分を救うのは自分でしかないのです。誰も救ってはくれないのです。》(バーバネル/近藤千雄訳『シルバー・バーチの霊訓』第11巻、86-7頁)

 《長い年月の勇気ある努力によってのみ自らを救うことができるのである。》(マイヤーズ通信/梅原伸太郎訳『人間個性を超えて』第8章)

 魂が(生者のであれ死者のであれ)、迷い道に落ち込み、苦しんでいる時に、高級霊が(稀には人の祈りが)、「救いの手」を差し延べることがあります。
 けれどもそれは、ぽんと極楽に移動させてくれるということではありません。光への道を示してくれるということであって、その道を歩くのは当人の責務です。

 楽になれる救いはない。楽にしてくれる救い手はいない。

      *      *      *

 人を手助けしようとすること、人に奉仕しようとすること、それは大切なことであり、最重要のこととも言われます。それは霊魂の本質(類魂としてのあり方)だからです。
 しかし、人を「救う」ことは、人にはできない。

 霊的真理を説いて、それによって誰かが気づきを得たとしても、それは救いではない。その人が「永生の確信」を得て「救われた」「新たな人生を生きられるようになった」と感じても、それはその人自身が自らを救ったということで、説いた人が救ったわけではない。
 (この点、「救うのは弥陀だけだよ」と説いた一向宗の態度は正しかったと思います。ただ「報恩」などという教義を作ってそれを台無しにしたようですが)

      *      *      *

 もう一つ、いささか反逆的で恐縮ですが。
 《(仏教のさとりで得られる)叡智は、人々を救うために必要なすべての性質――精神的な発達を遂げるためのあらゆる技術に関する知識と人々の感情や関心や性癖等々を見通す智慧――をそなえている》のであれば、世にいる統合失調症や鬱病やその他神経症の人々を治せるのでしょうか(まさかそれは脳機能障害だとは言わないですよね)。

 私の知り合いには何人か心理療法家がいます。彼らは彼らなりの知見と技術をもって、心の病を治しています(もちろん全部が成功するわけではありませんが)。
 私も、そういった心の病を抱えている人を治せたらどれだけいいだろうと切に思います。
 仏教者は時折「心の専門家」を自称することがありますが、果たしてそうした人々に向かい合ったことがあるのか、いささか疑問に思います。

 例外的な事例として、高級霊(特に一定の使命を担った高級霊団)が、人の病――肉体的病はもちろん、精神的な病まで――を治し、その心に「光」のありかを示すことがあります。
 ハリー・エドワーズの場合がその典型でしょう。
 素晴らしいことで、この世にこれ以上の救いがあるだろうかと思います。
 けれど、人間がそんなことを望むことは、ちょっと無理なのではないでしょうか。もちろん、そんなことができたらどんなにいいだろうかと思いますが。


 要するに、人を救うとか、救われるとか、あんまり簡単に言うべきものではないのではないか、と思います。


最新の画像もっと見る

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
このトピック (今来学人)
2011-09-19 05:01:03
非常に興味深い問いかけです。なぜならば近年「日本仏教心理学会」の如きものが設立されたからです。

設立に関与している人物が誰か、そしてその人たちが仏教と心理学をどう解釈し、どのように結びつけようとしているのかが客観的に吟味されねばなりません。
返信する
臨床心理学科 (JIJIRO)
2011-09-20 15:23:37
息子が不登校で悩んだ経験があるので、放送大学に編入学した際に臨床心理学科のある大学院を目指したことがありますが、確か佛教大学が臨床心理学に力を入れていたことを思い出しました。
返信する
Unknown (高森光季)
2011-09-20 17:04:50
学会ができたのですか。3年前ですね。
まあ……コメントはちょっと差し控えておきますw。

仏教が他界問題・死後問題を放棄したら、どうしても心理領域へ行くしかないですよね。
今来さまは唯識の専門家ではと拝察しますが、こういったものはどうお考えですか。
心理臨床・心理療法の世界も奥深いので簡単には言えませんが、「理論」をただ「現場」に降ろしてもうまく行くわけではない。重要なのはあくまで現場であって、そこには「暗黙知」「天性」の問題も関わる。先は長いでしょう。

お坊さんがお寺で瞑想の会を開いたり、心の悩みを聞いたりするのはいいことだと思いますけど、あまり説教臭くなると嫌われるでしょうし、一方、お坊さんの思想の厚みというものも問われるでしょう。まあ、外野がどうこう言うことではないですがw。

佛教大学が臨床心理学科を設けたのは、臨床心理士養成というブームに乗った(経営的問題)のか、仏教の方からの問題意識があったのか、興味があるところですね。

返信する
Unknown (今来学人)
2011-09-22 21:00:26
・仏教心理学について
心理学との接点は昔から言われていたことではあったのです。しかし学会ができるような機運があったとはつゆ知らず。唯識と心理学の関係もよく言われますが、私はまじめに検証したことがありません。。個人的には森さまや、津城氏のような視点はもっと仏教学に応用していきたいと思っております。

別トピックの件です。
・さとりについて
猊下の場合、①瞑想によって得られる至高体験、②世界や生への真なる認識、③真理獲得・無明断滅による生き方、④輪廻を超えでたという保証、のいずれにあたるかといえば、①から③を重要としつつ、④は最終目標的に設定しております。その場合の④は仏教の全体系において意図されていることらしいです。なお大乗では成仏という目的のために利他的行為が重んじられ、密教では心の安定のための瞑想と深い洞察の瞑想とを統合した集中的瞑想の発達を促す技法により、すべての障碍(輪廻から離脱を妨げる障害と、一切智への障害)を取り除く、と(『実践の書』p. 206[取意])。
八正道に関しては総括すると③ではないでしょうか(しかし八正道中には正念、正定が①に、正見、正思惟が②が対応するようにも見えます[水野弘元『仏教要語の基礎知識』p. 204]。これは人によって様々かもしれませんね。。)
私や猊下などの大乗仏教を重視するひとたちは六波羅蜜の実践を説きます。何が違うかというと、八正道にはない布施や忍辱の概念が追加されます。六波羅蜜は対社会的な項目を追加していることが注意されます。

・人間至上主義について
人間を過大に評価しているというのはおそらく悉有仏性思想や如来蔵、本覚思想にもつながっていくようにも思います。唯識には五姓格別思想が存在しますし、中世の真言宗学では人の機根が問題にされたりします。しかし、格別思想と比べ如来蔵的、本覚的思想がインド、チベット、中国、日本で歴史的にも文化的も大きな影響を与えていることを考えたとき、私はやはり人ってそういう願いや気持ちを持ちやすいものなのでは-人は仏の資質を持っているし、人は努力しだいで、あるいは努力することなく仏にもなれるし、人は念仏唱えれば死後に仏の世界に行くこともできる、など-と思います。つまり「救われたい」のだと思います。現在はどうなんでしょうか。。
返信する
Unknown (高森光季)
2011-09-23 00:57:27
重ねてのご教示、ありがとうございます。

八正道や六波羅蜜がよくわからないのは、その中には
①禁欲
②道徳的行為
③他者への奉仕
とがある(ごちゃごちゃになっている)と思うのですが、それが、
A.至高体験や真なる認識のため
B.輪廻超脱のため
のどちらのためなのか、と思うわけです。まあちょっと理に落ちすぎているかもしれませんが。
というのは、禅なんかでは、①でAが達せられればOKみたいなところがある。
②③はもしかすると「カルマを解消する」ことで輪廻を超え出るためのものなのではないか、と思えたわけです。
至高体験をして叡智を悟っただけじゃだめなんだよ、善行、奉仕をしないとカルマが消えないよ、と。そういう意味なら八正道もわかるのですが、「さとり=体験・叡智」という立場からは八正道は出て来ないのではないか、と。
たとえば道元なんかに布施・忍辱という考えはありましたかねえ。禅は上座部的なのでしょうか。

人間が仏になれるという理想は理想としていいと思うのですけど(本覚思想はスピリチュアリズムふうに言えば「人は皆神の子」ということでしょうw)、仏(究極)と人間との間に、菩薩とか天・明王といった「中間的存在」がないと、「いきなり宇宙意識との合一」みたいになってしまう。
仏教はもともとそういった「中間的存在」――スピリチュアリズムの「高級霊」――を持っていたと思うのですが、しばしばそれは度外視され、近代では否定される。
そういう高位存在への畏敬がないと、「ちょっと神秘体験したら神」みたいな傲慢・危険な思想になりはしないか(新宗教なんぞはそうですね)、と思ったりします。
返信する
追加 (高森光季)
2011-09-23 01:03:00
別のところで、「スピリチュアリズムには“救い”という概念がないんです」という話をしたら、
「それじゃあ人気が出ないでしょう」と言われました(笑い)。まあ、理論的な、概念的な救いはない、ただ、「不安・恐怖からの解放」とか、「自らを救う」助けにはなるわけですが、確かにそういう面があるかもしれません。
返信する

コメントを投稿