「100万ドルの夜景」の異名をとるアジア最大級の世界都市、香港。
19世紀中盤から20世紀の終わりにかけてイギリスの植民地として華麗なる発展を遂げました。
前回の記事ではなぜ香港がイギリスの植民地となったのか、その過程をご説明しましたが、
今回は香港がイギリスの植民地となってから国際金融センターとして発展するまでの経緯をご説明しましょう。
さて、度重なる戦争のあとに1898年に新界地区を含めた現在の香港の基盤が出来上がり、
香港政庁のもと大英帝国のアジアにおける拠点として発展してきました。
しかし1941年に太平洋戦争がはじまるとイギリスおよび中国と戦争をしていた日本軍が香港に侵攻し、
1か月もたたないうちにイギリス軍は降伏、香港は日本により設置された香港軍政庁の統治下にはいります。
しかしこれまで香港の経済を支えていた東南アジアにあるイギリスの植民地やオーストラリアなどとの
貿易が完全に停止してしまい、香港は経済的苦境に立たされることになります。
また香港軍政庁は香港ドルに代わり大量の軍票を発行したため急激にインフレーションに見舞われ、
香港に住んでいた多くの中国人が本土に流出し、戦争前は160万人ほどいた香港の人口は
日本の敗戦によりイギリスに返還された1945年には60万人程度まで減少していたとされています。
そして第二次世界大戦が終結した後、当時中国を統治していた国民党率いる中華民国政府がイギリスに香港の返還を求めますが
イギリス政府はこれを拒否し、中華民国政府とイギリス政府が交渉に入ることになりました。
しかし今度は中国で国民党と共産党が内戦に突入、その結果中国大陸は共産党が支配することになり中華人民共和国が樹立され
国民党政府は台湾島へ逃げ台湾にて中華民国政府として直接統治を行うこととなります。
アメリカやフランス、日本などの西側諸国は当初台湾の中華民国政府を正式な中国として承認していましたが、
イギリスは香港で接する華南地域を実効支配している中華人民共和国政府を無視することはできず、
また中華人民共和国も西側諸国であるイギリスとの国交樹立を急いでいたことから香港返還問題は棚上げしたまま
1950年に西側諸国としては初めて中華人民共和国を国家承認して国交を樹立することになります。
しかしイギリスはなんだかんだいっても西側諸国であり、ソ連など東側諸国とは対立関係にありました。
国連においても常任理事国である中国の代表権をめぐり、西側諸国は中華民国政府を、東側諸国は中華人民共和国政府を推しており、
西側諸国でありながら中華人民共和国を承認しているイギリスは非常に難しい立場に立たされることになります。
そこでイギリスがとった作戦は「とにかく賛成する」こと。
国連では中華民国寄りの決議には西側が賛成し東側が反対し、逆に中華人民共和国寄りの決議には西側が反対し東側が賛成します。
しかしイギリスはこの難しい立場から中国絡みの決議には内容にかかわらずすべて賛成票をいれることとし、
どちらの立場にも肩入れしないいわば「中立」の状態を維持していたのです。
では棚上げされていた香港返還問題はどうなるか?といえば、実はそのまま棚上げされたままとなります。
というのも中国は朝鮮戦争への介入を皮切りに大躍進政策の失敗や中ソ対立などによって急速に国際的孤立を高めています。
その中で中国と国交のあるイギリスの植民地である香港は中国にとって唯一の西側諸国への窓口であり、
香港が返還されてしまうよりもイギリスの植民地のままであったほうが中国にとっても都合がよかったのです。
またこのイギリスと中華人民共和国との関係が香港の経済構造に大きな変化をもたらします。
第二次世界大戦前は香港は中国大陸と東南アジアなどとの中継貿易で栄えてきた都市でした。
しかし中国が共産化したことでその中継貿易に依存することが難しくなってしまいました。
一方で、これまで中国金融の中心地であった上海が共産党の支配下にはいったことで、
外資系の金融機関や企業が一斉に上海から逃げ出し始めます。
その避難先として選ばれたのが同じ中華圏の資本主義勢力下にある香港であり、
上海が一工業都市に戻る一方で香港が中華圏内における一大金融中心地にのしあがることになるのです。
また世界が飛行機の時代に突入したことでアジア各地にアクセスのしやすい香港の立地は
東アジア及び東南アジアの物流のハブとなることに充分に事足りました。
また中国大陸での文化大革命から逃れてきた人々やベトナム戦争の難民などが香港に集まってくるようになり、
香港の人口や経済力が急速に伸張し、同じくアジアで急発展を遂げていた東京とともに
アジアを代表する世界都市へと成長していくことになるのです。
特にイギリスの植民地であり、東京と異なり英語の通用度が高いことから
多くの多国籍企業が香港に進出し、アジア太平洋地区の拠点としています。
こうしてアジアで確固たる地位を確立した香港ですが、1980年代になってくると返還問題が再燃します。
これまでの返還問題はあくまでイギリスと中国の交渉次第というところがありましたが、
今回は1898年に租借した新界地区の99年間の期限が切れるという契約に基づくもので、
これまでのように中途半端に棚上げしたままにしておくことができないものでした。
これに対して時の英国首相マーガレット・サッチャー氏は中国が強力に返還を求めてくることはないだろうと
予測しており、新界地区の99年間の租借期限を延長する方向で交渉に入る予定でした。
しかし実際に中国側の代表で会った鄧小平氏は租借期限の延長を断固拒否。
イギリスに香港の返還を求めるようになります。
ではなぜこれまではイギリス領香港という存在が必要だった中国が返還を求めるようになったかというと、
この理由には中国国内の経済構造の改革が挙げられます。
中国はこれまで共産党の支配下のもと外資系企業の自由な経済活動には大きな制限をかけてきました。
そのため上海など主要経済都市にも外資系企業は少なく、香港が外国への窓口になっていたのです。
しかし1980年代にはいると中国の改革開放政策が進展して上海や厦門などに経済特区が設けられ
多くの外国企業が進出してくるようになります。
つまり香港以外にも中国にとって西側諸国への窓口になる都市が出来てきたんですね。
そうなると中国としては一大経済都市である香港をみすみすイギリス領のまま放置しておく理由はなく、
「約束通り返してもらおうか」という話になるわけです。
しかし思い出してみましょう。たしかに新界地区は99年間の期限をつけられた租借地域ですが、
その南の九龍半島と香港島は条約によって永久にイギリスに割譲されている土地のため、
新界のみを返還して香港の心臓部である両地域はイギリス領のまま保持するという選択肢もあったはずです。
しかしそうは出来ない理由は香港にはあるのです。
香港が経済的に大きく発展した理由としては冷静という社会構造や立地のほかに、
「積極的不介入」という香港政庁の政策も大きくかかわっています。
香港経済は自由主義に基づており、経済活動の制約が少なく税率が低いことが特徴です。
つまり、本当に必要なこと以外に政庁は関与せずに企業活動に任せるということです。
この自由度の高い経済を求めて多くの企業が香港に進出してきています。
しかし、税率が低いということはつまりそれだけ政庁の収入が少ないということにつながります。
ではどうやって政庁は稼いでいるのか?というと、実は新界地区の不動産収入だったりするんです。
香港は人口が急増した影響で住宅地が足りず、広大な新界地区でも大規模な住宅開発が行われていました。
香港政庁は新界地区の土地を開発業者に売却したり貸与したりすることで収入を得ており、
それが低い税率による少ない税収入を補うことにつながっていたのです。
つまり新界地区を失うということはこの重要な財源を手放してしまうということにつながります。
またこの住宅開発により新界地区には香港中心部に勤めるたくさんの人々が居住しており、
仮に新界地区のみが中国に返還された場合、毎日多くの通勤客が国境を通過することとになり
その手続きに膨大な手続きが予想されます。
そのため新界地区のみを中国に返還するというのはイギリスにとっては現実的なものではなく、
「新界地区の租借期限を延長しイギリス領のままとする」か「香港をまるごと返還する」かの二択だったんですね。
九龍半島と香港島ならまだしも99年間の期限を条件に租借した新界の返還を拒否することはイギリスにはできません。
当初イギリスは新界のみの返還も検討していましたが、上記の理由や鄧小平の強硬な主張により折れた形にになり、
1997年7月1日にイギリスから中国に返還されることになったのです。
これに伴い1984年中英共同声明が発表され、この中で香港では中国本土と同様の制度が適用されない
「一国二制度」を返還後50年間は維持されることが約束されました。
一方で1898年の天安門事件などを受けて中国共産党による一党独裁制度を嫌う香港人たちは返還を前に
カナダやシンガポールといった同じイギリス連邦加盟国へと次々と脱出していくことになったのです。
そして1997年6月30日から7月1日にかけて、当時のチャールズ皇太子ご臨席のもと盛大な返還式典が行われ、
かつて世界中に植民地を持っていたイギリス最後の植民地である香港が中国に返還されたのです。
それは栄華を誇った大英帝国の終焉を象徴するものとも言われました。
こうして中国領となった香港ですが、返還後もいろいろと話題には事欠かない地域となっています。
またそれは別に記事で。
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