地図ヨミWORLD〜世界の豆知識〜

世界にはたくさんの国や地域があり、それぞれ逸話が隠れています。そんな豆知識を持っていると地図を読むのも楽しくなるはず。

地球の裏側にある島々ーフランス領ポリネシア

2022-11-16 18:26:13 | 旅行

さて、世界で最も長い国内航空路線はどこだかご存知でしょうか。

 

正直いろいろなポジションの海外領土を抱えている国もあり

「国内線」「国際線」の定義が曖昧なところもありますが、

一般的には

モスクワ~ペトロパブロフスクカムチャツキー(ロシア/約6800km)や

パリ~レユニオン島サンドニ(フランス/約9400km)などが挙げられます。

しかしこの国内線の定義を「出発地と最終到着地が同じ国」とすると

パリ~タヒチ島パペーテ(フランス/約15700km)が世界最長となります。

15000kmというと東京からだとペルーのリマくらい離れた距離。

パリからそんなに離れたほぼ地球の裏にフランス領の島々があるんですね。

 

今回はその島々、フランス領ポリネシアに注目してみたいと思います。

 

 

このフランス領ポリネシアがどこにあるかというと、

南太平洋のちょうど中央らへん、オーストラリアとパナマを結ぶ中間点あたりにあります。

ソシエテ諸島を中心に118の島々から構成されており、

面積は約4,100㎢と東京都の2倍弱、石川県や福井県とほぼ同等と

以外に広めの土地に約30万人の人々が住んでいます。

ちなみに日本の沖縄県ですと面積が約2,200㎢、人口は約150万人です。

 

日本では「フランス領ポリネシア」という名前よりも「タヒチ」といったほうが

わかりやすいでしょうか。リゾート地として知られています。

 

ではなぜこの南太平洋の島々がフランスによって領有され、

21世紀になったいまもなおフランス領として存続しているのでしょうか。

 

 

もともとこのフランス領ポリネシアはポリネシア人が住んでいた土地でした。

よりオーストラリアよりのトンガやサモアよりカヌーでポリネシア人が到達したのが6世紀頃、

まずマルケサス諸島についたポリネシア人たちは現在のフランス領ポリネシアの

各島々に広がっていき、さらにハワイ諸島へと向かったとされています。

 

この地にヨーロッパ人がはじめて来航したのは1595年のことで、

この時にやってきたのはフランス人ではなくスペイン人でした。

その後1606年にポルトガル人、1769年にはイギリス人がそれぞれ初来航し、

フランス人が到達したのは1786年とスペインから実に約200年も後のことでした。

 

このポリネシアの島々がヨーロッパの注目を集めたのは1789年のことです。

フランスが初めて到達してからわずか3年後のことですね。

当時タヒチ島にはパンノキという食用になる植物が生えており、

イギリス海軍の徴用貨物船であるバウンティ号が奴隷用の食糧として

このパンノキをカリブ海へ運ぶ任務へとついていました。

1789年、パンノキやその他の物資を満載したバウンティ号は

インド洋や喜望岬経由でカリブ海に向けて出帆します。

しかし艦長であったウィリアム・ブライの苛烈な取り扱いや

満載されたパンノキで居住空間の環境が悪かったことで船員の反乱が発生、

タヒチ島から西へ進んだトンガのフレンドリー諸島で

ブライ艦長らは救命艇でバウンティ号を追放されてしまいます。

 

船に残ったメンバーはその後ポリネシアの島々を点々としたあと

イギリスの海図には載っていないピトケアン島に辿り着き、

バウンティ号を解体してその島で生活を始めることになるのです。

 

それに対して追放されたブライ艦長らは南太平洋を彷徨い、

オーストラリア北部のトーレス海峡を通過してティモール島に漂着、

イギリスに戻りこの反乱を本国に報告します。

これに対してイギリスは戦艦を派遣して反乱メンバーを捜索しますが、

ピトケアン島は海図に載っていないばかりか船も解体されてしまっていたため

結局反乱メンバーを見つけることはできませんでした。

 

このバウンティ号の反乱はヨーロッパ各地でセンセーショナルに伝えられます。

当時ヨーロッパではクックが持ち帰った植物の図譜などが話題を集めており、

エキゾチックな南太平洋というものが大衆の興味を集めていました。

そこに「南太平洋で貨物船が忽然と消え失せる」という事件が飛び込んできて、

ますます関心が高まっていったのです。

 

 

そこに目をつけたのがフランスだったのです。

すでにオーストラリアなどを植民地化しているイギリスに対して

オセアニア地域への進出に遅れをとっていました。

そこでフランスは当時タヒチ島を中心に周辺の島々を支配していた

ポリネシア系のポマレ王朝に圧力をかけてタヒチ島とモーレア島を保護領化、

そして1880年にポマレ5世が主権をフランスに譲渡し、

正式にフランスの植民地となったのです。

 

 

その後フランス領ポリネシアとして両大戦を乗り切ったわけですが、

1949年には植民地から海外領土に昇格し、1957年には大幅な自治権を獲得します。

しかし1960年代に入ると、このフランス領ポリネシアを語る上で

避けては通れない歴史に直面します。

 

それが核実験です。

 

フランスは1960年に初めて核実験を成功させ、

アメリカ、ソ連、イギリスに次ぐ世界で4番目の核保有国となります。

当時フランスが核実験を行っていたのはフランス植民地であったアルジェリア南部で、

最初の核実験もこのサハラ軍実験センターで行われました。

しかし1962年のアルジェリア独立に伴いこの実験センターが使用できなくなり、

フランスは新たな核実験場の設置を模索することになります。

そんなときに白羽の矢が立ったのがフランス領ポリネシアでした。

 

フランス領ポリネシアではムルロア環礁やファンガタウファ環礁で核実験が行われ、

地下実験と空中実験と合わせて200回近い核実験が行われています。

この核実験に対してフランス政府は安全性を強調しており、

実験を行う際には海域封鎖を行うなど対策をとっているとしました。

しかしながら実際には多くの住民が核実験の影響を受けており、

フランス政府は2010年になってようやく核実験の健康被害を認め、

被害者への補償に向けて動き始めています。

 

またフランス領ポリネシアではこうした核実験への反発が独立運動へつながり、

1995年には数万人規模のデモ隊により暴動が発生します。

その後も2004年にポリネシア系として初めて行政長官となってオスカー・テマルが

フランスの支配からの脱却と独立を提唱するなど独立へ向けての動きもあります。

 

一方で、同じフランスの海外領土であるニューカレドニアほどの

盛り上がりはみせていないのも実情だったりします。

 

フランス領ポリネシアの産業はおもに観光業や黒蝶真珠の輸出がメインですが

ニューカレドニアのような地下資源には恵まれていません。

そのため現在でもフランス本国からの助成金に頼っている部分もあり、

また広域に島が点在するという国防上の観点からも

フランスという大国の傘の下にいたほうがいいのではとの意見も根強くあります。

 

ニューカレドニアについては具体的な独立の動きが出ている一方で、

フランス領ポリネシアについてはまだ独立への道は遠そうなのが現実です。

 

さて、このフランス領ポリネシアですが現在は世界的なリゾート地としても知られています。

日本からも東京からエアタヒチヌイが首府パペーテへの直行便を飛ばしており、

タヒチ島などは新婚旅行先としても人気を集めています。

 

実はこのタヒチ島、水上バンガロー発祥の地なんですね。

いまでこそモルディブやフィジーなどでも多数見られるこの水上バンガロー、

独立したプライベートな空間と目前に広がる青い海が魅力的です。

近年では「水上コテージ」という名称でも広く浸透していますが、

タヒチでは「水上バンガロー」または「水上ヴィラ」という表現がされています。

 

こういったリゾート地は主にカップルのほかシニア層やファミリー層にも人気。

ただし場所によっては子供の受け入れをしていないところもあるので、

利用する際はどんなリゾートかを吟味してから滞在場所を決めたいですね。

 

東京からは11時間余りで到着する南国リゾートタヒチ。

過去には植民地支配や核実験などの暗い歴史も抱えていますが、

是非青い海とおいしい魚介類やフルーツを楽しみに行ってみてもいいかもしれません。


赤道直下の明るい北朝鮮ーシンガポール

2022-11-16 01:27:33 | 旅行

さて、前回の記事ではシンガポールがマレーシアから追い出されて

1963年に独立するところまでをご紹介しました。

 

こうして都市国家として独立したシンガポールですが、

21世紀になった現在、東南アジアで最も所得の高い国に成長し、

都市としても東京や香港と並びアジアを代表する世界都市といえます。

一方で普通選挙が行われているものの実質的には一党独裁制ともいえる政治体制や

死刑を含めた厳しい刑罰を伴う法制度が導入されており

その様相は「明るい北朝鮮」とも言われています。

 

今回はシンガポールのそんな側面に注目してみようと思います。

 

 

シンガポールの国土は719㎢で、日本ではよく淡路島ほどといわれており、

その狭い土地に580万人余の人々が生活しています。

淡路島の人口が12万人ほどなのでいかに都市化が進んでいる地域かがわかります。

このシンガポールの都市化を強力に推し進めたのが「開発独裁」というシステムでした。

 

開発独裁とは、経済発展のためには政治的安定が必要であるという理論から

国民の政治参加を制限することをいいます。

シンガポールの場合は投票は義務制であり普通選挙が導入されているものの、

与党である人民行動党に非常に有利な選挙システムとなっています。

例えばシンガポールでは現在小選挙区制とグループ選挙区制が並列されていますが、

インフラ整備などは与党である人民行動党の支持率が高い地域から優先されます。

そのため人民行動党の支持率が低い選挙区はインフラ整備が後回しにされてしまい、

なかなか公共設備の更新などが行われなくなってしまいます。

逆に言えば人民行動党に投票さえしていれば政府からの支援が行われ、

シンガポールという国の中継貿易の恩恵にあずかることが出来るということ。

なので自分たちに大きな不利益がない以上、豊かな暮らしを続けていくために

人々は文句を言わずに人民行動党に投票し続けることになるのです。

 

またグループ選挙区制というのは日本でいう中選挙区のようなイメージですが、

得票数が高い順に当選していくのではなく、最も得票数を集めた政党が

その選挙区の定数分を総取りする「Winner Takes All」制度。

そのため与党はこの選挙区を与党が常に勝てるように再編することで

ほかの政党を排除することもできちゃうんです(ゲリマンダーってやつですね)。

 

一方で国民の一定の信頼に基づいての普通選挙と開発独裁の共存であり、

政治腐敗は日本を超えアジアで最も少ない国とされています。

こうしたことからシンガポールは「明るい北朝鮮」とも呼ばれているのです。

 

しかし近年では実質的な一党独裁制や与党の移民政策への反発から

野党が徐々に議席を増やしてきており、

2020年には初めて人民労働党以外の野党が10議席を上回りました。

長年シンガポールを支えてきた開発独裁性も節目を迎えているのかもしれません。

 

 

さて、現在のシンガポール経済を支えているのは金融や貿易、

重工業と中心とした工業が中心となっていますが、

同時にバンコクと並び東南アジアを代表する観光都市のひとつでもあります。

 

そんなシンガポールの象徴といえばマーライオンでしょう。

1972年の建設当時からシンガポールを代表する観光地となっていましたが、

しばらくすると口から水を出すポンプが故障して水を吐かなくなり、

また新しい橋が架けられたことから正面から像を見ることができなくなってしまいました。

 

そのためマーライオンといっても白い像がただ川沿いに建っているだけの状況で、

ブリュッセルの小便小僧、コペンハーゲンの人魚姫の像とともに

「世界三大がっかり観光名所」に数えられるほどでした。

しかし2000年以降マーライオン・ピアという海側に移転されたほか、

ポンプが修理され口から水が出るようになり、

また桟橋が設置され前方から至近距離でマーライオンを見れるようになったため

再び人気の観光地として息を吹き返しています。

 

なおこのマーライオンは都心部に近いマーライオン公園にありますが、

それ以外にも本体の像の背後や政府観光局の前など複数の場所に設置されており、

中でもセントーサ島にあったマーライオンタワーは高さ37mと巨大なもの。

中にも入ることが出来、エレベーターで頭上まで登ることも可能した。

かつては目からレーザービームを発するという近未来兵器のような仕様もありましたが、

現在はセントーサ島の再開発で解体されています。

 

ではここでシンガポールを代表する企業としてシンガポール航空をご紹介しましょう。

シンガポールは中世期から海上交通の要衝であったことは先述の通りですが、

現在では空の便においても航空便のハブ都市となっています。

シンガポールはオセアニア、中東、東アジア、アフリカ、ヨーロッパなど

旧世界のいずれもアクセスが可能な立地であり、

シンガポール航空はシンガポール本国への航空需要のほか

特にヨーロッパとオセアニアをつなぐカンガルールートの需要を取り込んできました。

日本路線にも東京をはじめ多くの路線に就航しており、

日本とシンガポールを行き来する人たちのほかシンガポールで乗り継いで

東南アジア各地やオセアニア、インド、アフリカなどへ行く人々にも多く利用されています。

また成田空港からはシンガポール線を延長してロサンゼルスまで就航しており、

日本人にとっても馴染みの深い外資系航空会社のひとつです。

 

シンガポール航空は最新鋭の機材の更新に積極的であることにも知られており、

特に総二階建で話題となった巨人機、エアバスのA380型機のローンチカスタマーともなりました。

シンガポール航空は成田線にA380を投入していましたね。

また機内サービスのレベルが高いことでも知られており、

女性CAの着るサロンケバヤもシンガポール航空の名物のひとつとなっています。

 

現在東南アジアの金融センター及び観光の中心地として高い航空需要があり、

世界中から様々な民族が集まる土地を象徴する企業のひとつとなっています。

今となっては東京を上回る所得を誇るシンガポール。

美しい街並みと様々な文化が合わさった国を楽しんでみたいですね。


マレーシアから追い出された島ーシンガポール

2022-11-15 21:59:59 | 旅行

みなさんは世界にファインカントリー(Fine Country)と呼ばれている国があることをご存知でしょうか。

 

Fineなんてさぞかし爽やかで素敵な国っぽいネーミングですが、

実はファインカントリーこの国は東南アジアのシンガポールなんです。

これはシンガポールはゴミのポイ捨てなどの規律が厳しく清潔で治安もいいため過ごしやすい(Fine)という側面と、

なににつけても罰金(Fine)が多いという側面をかけたニックネームなんです。

 

たしかにシンガポールは規則が多いためか統制の取れた社会構造をしており、

現在は東南アジア随一の先進国となっています。

しかしこのシンガポール、なかなか苦難の歴史を歩んできてことをご存知でしょうか。

 

 

シンガポールはご存知の通りマレー半島の先端にあり、

インドと東アジアをつなぐ海上交通の要衝となっています。

そのため1000年以上前から多くの船が寄港する港町であったとされており、

14世紀には「様々な国の船がやってくる海賊たちの国」との記述が中国の文献に残っています。

 

当時このシンガポールは「テマセック」という名前で呼ばれていましたが、

14世紀末にはサンスクリット語で「ライオンの町」という意味である「シンガプーラ」という

名前が定着し、現在のシンガポールの名の由来となっています。

その後マラッカ王国の支配下におかれますが、マラッカ王国はポルトガルの侵攻を受け、

シンガポールが焼き払われた1613年以降放棄され人々から忘れ去れることとなります。

 

 

そんなシンガポールが再び脚光を浴びるのは1814年まで待たなければなりませんでした。

1814年、シンガポールにイギリスのトーマス・ラッフルズが上陸します。

当時シンガポールを支配していたのはマラッカ王国を継承したジョホール王国で、

ラッフルズはこのシンガポールの立地に注目し、商館の建設をすることになります。

ラッフルズは当時なにもなかったシンガポールを商館を中心に都市化を推し進め、

上陸の10年後の1824年、イギリスの植民地として正式に割譲されることとになります。

 

その後イギリスの海峡植民地の首都となったシンガポールは

インド洋と太平洋をつなぐ交易の要衝となっていただけでなく、

マレー半島で採れた産物の積出港として機能していました。

そのためインドや中国、インドネシアなど周辺諸国から多くの移民が労働力として移り住み、

現在のシンガポールのような多民族国家となってゆくのです。

1869年にスエズ運河が開通するとヨーロッパからの交易路の中継地点にもなり、

シンガポールはイギリスの東南アジアの拠点として未曽有の繁栄を遂げることとなります。

 

そんなシンガポールにも戦争の足音はやってきてしまいました。

20世紀前半、当時シンガポールには15万人を超えるイギリス軍が駐留する軍事要塞でもありました。

そのため太平洋戦争がはじまると、開戦と同日の1941年12月8日に日本軍による空襲を受けます。

また同年12月10日に起こったマレー沖海戦ではシンガポールに拠点を置く東洋艦隊と

日本海軍が激突し、イギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズが日本軍により撃沈されます。

このイギリスの威信をかけた戦艦の撃沈はイギリス本国にも激甚な衝撃を与え、当時のチャーチル首相は

「このニュースほど衝撃を受けた知らせはなかった」と振り返るほどでした。

 

この東洋艦隊の壊滅の後シンガポールは陥落、日本軍の占領下に置かれます。

シンガポールは昭南島と改称されたうえで軍政が敷かれ、

日中戦争の影響から反乱を恐れた日本軍により中華系住民が多く粛清されるなど

多くのシンガポールの住民が戦争の犠牲になりました。

 

日本の敗戦後は再びイギリスの植民地となりましたが、

マレー半島で植民地搾取を行っていたイギリスに対する反感も強く、

シンガポールやマレー半島では独立に向けた動きが活発化していきます。

第二次世界大戦後で疲弊したイギリスにはこの動きを余力はなく

1963年、先にイギリスから独立したマラヤ連邦とともに

マレーシア連邦として独立を果たすのです。

 

 

こうしてイギリスした独立したシンガポールですが、

先述の通りマレーシアの一部としての独立でした。

しかしここでシンガポールとマレーシアの溝が浮き彫りになっていきます。

というのも当時マレーシアはマレー人を優遇するブミプトラ政策というものを執っていました。

特定の人種や民族を優遇する政策というのは少し変な感じがしますが、

これにはマレーシア独特の民族的事情があるのです。

 

マレーシアは地理的にインドや中国からの移民が多く、

特にイギリスの植民地になってからはより多くの民族が

労働力として流入することとなりました。

その中で中国系の住民は比較的経済的に豊かな人が多く、

逆に「地元民」であるマレー人は経済的に厳しい立場におかれていたので、

それが民族対立を生んだことからマレー人を国策として優遇することで

民族間の経済格差を少なくしようというものでした。

 

このブミプトラ政策についてはマレーシアでも賛否両論でしたが、

特にシンガポールでは大きな反発を生むことになります。

というのも、シンガポールは実は中国系の住民が多い国であり、

人口の7割以上が中国系となっています。

そのため「少数派」ともいえるマレー系住民を優遇する政策は

シンガポールにとっては受け入れ難いものでした。

その結果マレーシア中央政府と平等政策をとるシンガポール人民行動党が激しく対立し、

死傷者がでるような暴動が発生する始末になります。

 

その結果マレーシア中央政府はシンガポールとの関係修復は困難と判断し、

マレーシアのラーマン首相とシンガポール人民行動党のリー・クアンユー党首が合意の上

シンガポールはマレーシアから追放される形で都市国家として独立を果たすのです。

 

こうしてシンガポールはマレーシアと袂を分かつことになったわけですが、

ここから様々な壁を乗り越えながらもシンガポールの快進撃が始まっていくのです。

 

シンガポールが独立してからのお話はまた別の記事にて。


アメリカなのかヨーロッパなのかーグリーンランド

2022-11-12 23:57:36 | 旅行

さて、前回の記事でアメリカの庇護のもと第二次世界大戦を乗り切ったデンマークをご紹介しました。

 

今回は第二次世界大戦後のグリーランドと独立問題などに焦点をあてていきたいと思います。

 

 

アメリカからの助けで第二次世界大戦でも大きな被害を出さずに乗り切ったグリーンランド。

1953年には植民地から海外郡へと昇格しデンマーク議会に代表を送れるようになります。

 

しかし第二次世界大戦後のヨーロッパではアメリカや日本といった経済大国に対抗するため、

フランスやドイツなどを中心に経済統合が進められていました。

デンマークも国民投票の結果1973年に欧州共同体へ加盟することになるのですが、

実はこの投票、グリーンランドでは反対票のほうが多かったんです。

 

というのも、グリーンランドは地理的にヨーロッパよりも北米大陸のほうが近く、

貿易などもアメリカやカナダのほうがほかのヨーロッパ諸国よりも多かったんですね。

実際首府のヌークからはコペンハーゲンやパリまでは約3,500kmほどなのに対して

ニューヨークまでは約3,000km、モントリオールまでは約2,500kmとかなり近いですね。

そのためグリーンランドとしてはいくら欧州域内の貿易が自由化されてもその恩恵にあずかれず、

逆に域外貿易の関税があがるなどマイナス面のほうが多くなってしまったのです。

 

こういった問題をうけてグリーンランドでは独立運動が盛んになっていき、

1978年には一部の外交権も含めた高度な自治権を獲得し、

1985年には独自で欧州共同体からの離脱を行っています。

 

しかしながらデンマーク本国は現欧州連合の加盟国となっているため、

デンマーク国籍を持つグリーンランドの住民は自動的にEUの市民権を保持します。

一方でグリーンランド自体はEUに加盟していないため、

欧州議会などの選挙権はグリーンランドでは行使できない決まりとなっています。

 

 

それではグリーンランドとアメリカの関係とはどのようなものなのでしょうか。

 

グリーンランドは先述の通り、第二次世界大戦中にアメリカの庇護下に入っていました。

そしてそのまま世界は冷戦期に突入するわけですが、

アメリカから見て地理的にソ連に近いグリーンランドは戦略的に重要な地とされ、

グリーンランド西岸北部にあるチューレに爆撃機用の基地が建設されることになります。

1953年に完成したこのチューレ空軍基地はソ連からの攻撃の迎撃基地とされ、

1961年には弾道ミサイル早期警戒システムが配備、基地の人員は1万人を超えていました。

 

その後基地の規模は縮小され現在はアメリカ宇宙軍の基地となっていますが、

弾道ミサイルの警戒や人工衛星の追跡などの任務が行われています。

 

そんな地理的、歴史的に近い関係にあるアメリカ合衆国との関係について、

2019年にある事件が発生します。

 

それは当時のアメリカ大統領であったドナルド・トランプ氏が

グリーンランドの購入を検討しているとされた事件でした。

この際特に具体的な金額などが明示されたわけではありませんでした、

トランプ大統領もグリーンランド購入に「非常に興味がある」と乗り気な姿勢を見せ、

もしデンマークが受けるのであれば実際に購入を考えていたと報じられています。

しかし実際にはデンマークのフレデリクセン首相、グリーンランドのキールセン首相は即座に拒否、

トランプ大統領はそのあとに予定されていたデンマーク訪問を延期するという事態にまで発展しました。

 

このグリーンランド購入に関しては単なるトランプ大統領の気まぐれではなく、

グリーンランドに豊富に眠るとされる地下資源などについて

近年中国やロシアが積極的に進出しているとされてきたこともあり、

それを牽制する意味合いもあったとされています。

また過去にはトルーマン大統領が1946年に1億ドルでグリーンランド購入を

デンマークに持ち掛けていたことがあるほか、

第一次世界大戦後には実際にアメリカがデンマークから

現在のアメリカ領バージン諸島を購入している経緯もあります。

 

しかしそこはデンマーク王国の構成国であるグリーンランド、

またトランプ大統領のキャラクターもあってか

このアメリカによるグリーンランド購入計画は一蹴されてしまったのです。

 

 

ではグリーンランドがこれからもデンマークとともに歩いていくかというと、

決してそうではありません。

現在でもグリーンランドでは独立問題が大きなファクターとなっています。

前回の記事から紹介していますがもともとグリーンランドはノルウェーの植民地であり、

また現在グリーンランドの住民は多くがアメリカ先住民イヌイットの子孫です。

つまり歴史的にも文化的にもデンマークから遠く離れています。

 

そのためグリーンランドではかねてより独立運動が盛んに行われてきており、

1979年以降には高度な自治権を獲得しています。

2009年にはこれまで公用語であったデンマーク語が外され、

グリーンランド語のみが公用語と認められています。

しかしいまだにデンマークにとどまっているグリーンランド。

それはなぜかというと、「お金がないから」なんです。

 

グリーンランドの主産業は漁業であり、輸出の9割近くを占めています。

現在もかつてグリーンランドを支配していた王立グリーンランド貿易会社を前身とする

ロイヤルグリーンランド社が世界有数の水産業者として経営を続けており、

日本にもエビを中心に多く水産物が輸出されています。

 

しかしそれ以外にはグリーンランドの経済を支えるほどの産業はなく、

観光業も冬が厳しく観光向きの季節が短いことや交通の便があまりよくなく

旅費が嵩むことからあまり成長していません。

一方でその厳しい気候から農業はほぼ行うことが出来ず、

食糧などは輸入に依存せざるを得ないのが現状です。

そのためグリーンランドは歳入の多くをデンマーク本国からの助成金に頼っており、

その額はデンマークの総輸出額を上回るほどの規模なのです。

そのためデンマークから独立しても食料などの輸入を賄うだけの歳入がなく

国としてやっていけなくなってしまうのです。

 

それがネックでなかなか独立に踏み切れなかったグリーンランドですが、

実は近年その様相が変わってきているんです。

 

その理由のひとつは地球温暖化です。

現在地球温暖化は極地の氷が融け海面が上昇しているとして

南洋の島国が沈みかけているなど深刻な問題を引き起こしています。

しかしグリーンランドのおいては若干事情が異なるんです。

グリーンランドには石油などの多くの地下資源が眠っているとされていますが、

島の大半が厚い氷に覆われておりその採掘は非常に困難とされてきました。

しかし温暖化でその氷が少しずつ解けてきており採掘できる可能性が高まり、

新たなグリーンランドの産業として大きく注目されています。

 

そしてそういった資源の採掘に大きく関わっているのが中国の存在です。

グリーンランドには世界最大規模のレアアースの鉱床があり、

グリーンランドミネラルズという会社が採掘や加工を行っています。

現在はこの会社の株式を中国企業である盛和資源が取得しており、

このレアアースの加工を一手に担っている状態になっています。

なおこの盛和資源の株式は中華人民共和国政府の自然資源部が持っており、

中国政府の影響力が非常に強い会社なんですね。

先述のトランプ大統領のグリーンランド購入発言も

こういったグリーンランドにおける中国の影響力拡大に釘を刺す目的もあったのではと言われています。

 

しかしグリーンランドではこうした鉱物開発でデンマークからの助成金への依存が少なくなり、

デンマークからの独立のトリガーになるともされこの開発を歓迎する意見も少なくありません。

しかしそれは裏側には中国など別の大国の影響下に入ることでもあります。

 

このままデンマークとともに未来に歩いていくのか、

もしくはその傘から一歩踏み出して独自の道を歩いていくのか。

 

これからもグリーンランドには注目していかなければなりません。


世界で一番大きい島ーグリーンランド

2022-11-12 19:55:17 | 旅行

さて、世界で一番大きい島はどこでしょうか?

この質問に答えられる人は多いと思います。

そう、グリーンランドです。

ちなみに二番目に大きい島はニューギニア島です。

 

このグリーンランドの面積は約218万㎢と日本の約6倍弱と非常に広大な島です。

緯度が高いためメルカトル図法の地図でみるとオーストラリア大陸をも遥かに上回る超巨大島に見えますが、

実際にはオーストラリア大陸が700万㎢とグリーンランドの3倍以上のサイズなんですね。

 

ではこのグリーンランドは一体どこの国なんだ?というと

少し回答に窮してしまう人もいるかもしれません。

 

正解は「デンマーク」なんです。

 

グリーンランドは地理的には北米に位置していますが

デンマーク本土やフェロー諸島とともにデンマーク王国を構成する地域のひとつです。

つまり政治的にはヨーロッパなんですね。

 

ではなぜこの広大な島がいまデンマーク領として残っているのでしょうか。

 

そもそもグリーンランドには紀元前からアメリカ先住民が度々居住していた形跡がありますが、

ヨーロッパ人が到達したのは10世紀末のことでした。

ヨーロッパ人として初めて到達したのは「赤毛のエイリーク」と呼ばれるヴァイキングで、

出身は現在のノルウェー南部とされています。

彼はノルウェーを殺人の罪で追放された後大西洋に繰り出してアイスランドへと移住します。

しかしそこでも再び殺人の罪で追放されてしまった赤毛のエイリークはさらに西へと向かい、

現在のグリーンランドに到達することとなりました。

 

赤毛のエイリークは追放期間であった3年を待ちアイスランドに帰還しますが、

その際アイスランドにてグリーンランドへの入植者を募ることになります。

この時にかの地を「グリーンランド」と命名したのも赤毛のエイリークでした。

実は彼が住んでいたアイスランドは同様にノルウェー人が移住していましたが、

「氷の島(アイスランド)」という名前のためになかなか入植者が集まらず

苦労したとの逸話が残っていました。

そのため赤毛のエイリークは敢えて名前を「緑の島(グリーンランド)」と名付けて

入植希望者を増やそうとした、これがグリーンランドの名前の由来と言われています。

 

この由来に関しては文献などの証拠が残っているわけではないので、

あくまでひとつの説にすぎませんが、なんだかロマンのある話ではあります。

 

 

こうして赤毛のエイリークに率いられたアイスランド人たちが続々とグリーンランドへ移住し、

12世紀のピーク時には数千人規模の集落が2か所グリーンランド南部に作られています。

そして13世紀以降は彼らの故郷であるアイスランドと同様ノルウェーの支配下にはいるのですが、

その後14世紀後半に本国であるノルウェーが王家の断絶によりデンマークの配下になり

それに伴ってノルウェーの支配下にあったアイスランドやグリーンランドもデンマークに従属することになったのです。

 

しかしながら気候の変化などの様々な要因が重なったこともあり、

ヨーロッパ人の定住は15世紀後半にはいったん途絶えてしまい、

元々住んでいたアメリカ先住民が残るのみとなってしましました。

 

 

1536年、カルマル連合の解消及び伯爵戦争を経て、ノルウェーは正式に独立を失います。

それに伴いノルウェーの植民地であったグリーンランドやアイスランド、フェロー諸島なども

完全にデンマーク王のもとに属するデンマークの土地となったのです。

 

こうして正式にデンマーク領となった後もしばらくはそのまま放置されていましたが

18世紀中盤にデンマークは改めてグリーンランドの調査を行い、

ゴッドホープ、現在の首府ヌークを建設し再定住化が図られます。

1814年にはナポレオン戦争で敗戦したデンマークからノルウェーが分離しますが、

分離したのは本国のみで、グリーンランドなどの植民地はデンマーク領として残留します。

なおノルウェー本国は独立したわけではなく、スウェーデンに引き渡されています。

 

当時のグリーンランドの交易や統治はデンマークの王立グリーンランド貿易会社が行っていました。

しかし、この会社は主に交易を中心に運営しており、政治的な部分はかなり疎かな状態でした。

そのため1931年、ノルウェー人の捕鯨業者がグリーンランドの東海岸に上陸し、

無主地先占(ほかの国家の支配が及んでいない地域は最も先に支配下においた国が領有する)に則り

グリーンランドの一部をノルウェー領であると主張するという事件が発生します。

たしかにグリーンランドにおけるデンマーク人の居住地は島の南側に限られており、

ノルウェーが上陸した島北部東海岸側はまったくの無人地帯でした。

また王立グリーンランド貿易会社は統治にはあまり関与せず行政区域を設定するなどしていなかったため、

「デンマークの主権が及んでいない地域」としてノルウェーに隙を突かれたような形になってしまったのです。

 

結果的にこれは常設国際司法裁判所によりデンマークの主権が認められたため

グリーンランドの一部がノルウェー領となってしまう事態は避けられました。

ただノルウェーとしてはもともと自分たちの植民地であったグリーンランドを

一部でも取り戻したかったのかもしれませんね。

 

 

さて、グリーンランドはこのノルウェーによる占領のほかに第二次世界大戦でも危機に陥りました。

1940年4月、ドイツ軍により電撃的な侵攻を受けたデンマークでは数時間のうちにコペンハーゲンが陥落、

デンマーク政府は侵攻を受けた当日にドイツ軍に対して降伏します。

ドイツと同じゲルマン系国家であったことからデンマーク政府もデンマーク王もコペンハーゲンに留まり、

ドイツと防共協定を結んだのちに対独協力を行わされていました。

しかし当時の駐米デンマーク大使であったヘンリック・カウフマンはグリーンランドを守るためにアメリカと交渉、

独断でグリーンランドをアメリカの保護下に置く代わりに、連合国に基地の使用を認めます。

対独協力を強いられていた本国政府は当然これを認めませんでしたが、

本国を占領で失ったグリーンランドは基地の使用の見返りとして防衛及び生活物資の提供をアメリカから受け

戦争中にも関わらずヨーロッパの国々に比べると比較的ましな生活水準を維持していたとされます。

 

このため戦後デンマークは対独協力を行っていたにも関わらずカウフマンの行動により連合国側の一員と認められ

国際連合の原加盟国ともなっています。

 

なおこの際積極的にドイツに協力したとされたデンマークのクヌーズ王子は

戦後兄のフレゼリク9世の即位に伴い王位継承権第1位になりましたがこういった経緯から

国民からの人気が非常に低く、これがデンマークにおける女子の王位継承を認める憲法改正へとつながります。

その結果クヌーズ王子は王位継承権を失い、代わりにフレゼリク9世の長女マルグレーテが王位を継承することなります。

それが現在のマルグレーテ2世デンマーク女王陛下ですね。

 

 

こうして第二次世界大戦を乗り切ったグリーンランドは今度は冷戦期の中で

今度はアメリカとヨーロッパという2つの勢力の間で揺れ動くこととなります。

 

またそれは別の記事で。