地図ヨミWORLD〜世界の豆知識〜

世界にはたくさんの国や地域があり、それぞれ逸話が隠れています。そんな豆知識を持っていると地図を読むのも楽しくなるはず。

果たしていつでも一国二制度が続くのかー香港

2022-11-12 16:01:34 | 旅行

「100万ドルの夜景」の異名をとるアジア最大級の世界都市、香港。

19世紀にイギリスの植民地になって以来アジアの経済拠点として発展してきた香港。

その香港も1997年をもってイギリスから中国に返還されました。

しかし香港は「一国二制度」という特殊な行政区域に分類されています。

この一国二制度とは何で、また現在の香港はどのような状態に置かれているのでしょうか。

さて、1997年の香港返還に向けて発表された中英共同声明において、

中国は香港において本土で行われている社会主義政策を実施せずに資本主義政策を50年間に渡って維持するという

「一国二制度」を導入することが約束されました。

これに基づき1997年7月1日の主権移譲以降は中華人民共和国政府が外交権や軍事権を掌握し、

これまでのイギリス軍にかわって人民解放軍が香港に駐留するようになります。

一方で一般的な社会経済制度はイギリス領の時代から変わらず、

法体系もイギリス領であったころのコモンローがそのまま用いられることとなりました。

 

この一国二制度においては香港経済の自由度は維持されており、現在でも香港は

「世界で最も自由な経済体」のひとつに挙げられています。

イギリス植民地時代、特に第二次世界大戦直後の時代は繊維産業などの軽工業も盛んでしたが、

現在そういった製造業などは香港の北側、深圳や東莞など珠海デルタ地域に移行しており、

香港自体は金融や物流拠点として性格が強くなっています。

 

また土地が少ないことからサービス業が域内産業のうちサービス業が80%以上を占めるなど割合が高く、

特に観光業はGDPの5%を占めるまでに成長しています。

香港の美しい夜景が一望できるヴィクトリア・ピークや繁華街に立地する大規模なショッピングモールなどが人気で、

2005年にはランタオ島に香港ディズニーランドがオープンしています。

 

 

一方で政治や社会制度はというと、現在香港では一国二制度が守られているとは言えない状況です。

現在香港では香港版ミニ憲法ともいえる「香港特別行政区基本法」のもと

高度な自治権を有しており行政長官や立法会の完全なる民選の検討が規定されています。

しかしながら香港が返還されてから25年以上が経過した現在でも民選化はされておらず、

そればかりか民主化が後退しているといわれています。

 

香港には表向きには中国共産党の組織は存在しないことになっています。

しかしながら香港の実質トップである行政長官の選挙は直接選挙ではなく間接選挙で選ばれるのですが、

この選挙に立候補するためには選挙委員会を通して中国当局の許可が必要となっているんです。

また選挙委員会も基本的には親中団体のみで構成されており、民主派の人は選出されません。

つまり「中国当局が許可した人」を「親中団体から構成させる選挙委員会」が選ぶという

実質的に中華人民共和国の意に沿う人しか行政長官になることができないシステムなのです。

 

これに対しての香港人の不満は大きく、度々デモなどが行われてきました。

なお香港基本法では2007年以降直接選挙へ切り替える可能性も示唆されていましたが、

「2007年以降とは2007年のことではない」との法解釈でいまだに切り替えが行われていません。

こういった法解釈の権利も香港政府ではなく全国人民代表大会(全人代)が持っているんですね。

 

 

そんな香港の民主化運動をめぐって近年注目されたのが香港国家安全維持法です。

香港国家安全維持法は2020年の6月に全国人民代表大会で成立した法律で、

中華人民共和国政府は独自の治安維持機関を香港に設置することができ

場合によっては逮捕した人を香港以外の場所で裁判にかけることができるようになります。

また民主化運動など安全保障にかかわる裁判は裁判官を行政長官が指名できたりと

香港の安全保障に中国政府が大きく関わることができるようになったのです。

もちろんこの法律の解釈は香港政府でなく中国政府に委ねられています。

 

この法律により香港の司法は大幅に中華人民共和国のものに近づいており、

これにより中国政府の裁量で民主化運動の賛同者などを容易に逮捕できるようになり、

香港市民の表現の自由に大きな制約を与えているとされています。

 

実際にこの法律が施行されるにあたり多くの人がSNSへの様々な投稿を削除したり、

民主派企業が抗議行動などを支持する広告などを一斉に撤去するなどの影響が出ています。

 

また施行翌日には同法による初の適用者として10名の男女が当局に逮捕されました。

 

 

この法律に対しては香港の自由を奪うとして世界中からも批判の声が上がっており、

旧宗主国のイギリスは外相が言論の自由に対する攻撃であるとして非難しており、

300万人あまりの香港市民にイギリスの国籍を付与することを検討していると発表しました。

 

またアメリカもポンペオ国務長官がこれは一国二制度の約束違反であるとして批判したほか

トランプ大統領も「香港の自由は保障されなくなった」と発言しました。

 

 

なおこの法律では国外にいる外国人でもこの法律で処罰をすることが可能になり、

香港は国際刑事警察機構を通じて犯罪人引き渡し条約に基づき

条約締結国に容疑者の引き渡しを求めることが出来るようになっているため

カナダなど香港との条約を停止した国もありました。

 

日本は現在香港とは犯罪人引き渡し条約を結んでいないため

日本にいる日本人が同法に抵触したとして香港に引き渡される恐れはありませんが、

日本からも近く多くの日本人が住み、また日本にも多くの香港人がいることを考えると

この香港の問題は「他人事」ではないと思っていかないといけないのではないでしょうか。


大英帝国の拠点からアジアの中心へー香港

2022-11-12 13:48:58 | 旅行

「100万ドルの夜景」の異名をとるアジア最大級の世界都市、香港。

19世紀中盤から20世紀の終わりにかけてイギリスの植民地として華麗なる発展を遂げました。

前回の記事ではなぜ香港がイギリスの植民地となったのか、その過程をご説明しましたが、

今回は香港がイギリスの植民地となってから国際金融センターとして発展するまでの経緯をご説明しましょう。

 

 

さて、度重なる戦争のあとに1898年に新界地区を含めた現在の香港の基盤が出来上がり、

香港政庁のもと大英帝国のアジアにおける拠点として発展してきました。

 

しかし1941年に太平洋戦争がはじまるとイギリスおよび中国と戦争をしていた日本軍が香港に侵攻し、

1か月もたたないうちにイギリス軍は降伏、香港は日本により設置された香港軍政庁の統治下にはいります。

しかしこれまで香港の経済を支えていた東南アジアにあるイギリスの植民地やオーストラリアなどとの

貿易が完全に停止してしまい、香港は経済的苦境に立たされることになります。

また香港軍政庁は香港ドルに代わり大量の軍票を発行したため急激にインフレーションに見舞われ、

香港に住んでいた多くの中国人が本土に流出し、戦争前は160万人ほどいた香港の人口は

日本の敗戦によりイギリスに返還された1945年には60万人程度まで減少していたとされています。

 

 

そして第二次世界大戦が終結した後、当時中国を統治していた国民党率いる中華民国政府がイギリスに香港の返還を求めますが

イギリス政府はこれを拒否し、中華民国政府とイギリス政府が交渉に入ることになりました。

しかし今度は中国で国民党と共産党が内戦に突入、その結果中国大陸は共産党が支配することになり中華人民共和国が樹立され

国民党政府は台湾島へ逃げ台湾にて中華民国政府として直接統治を行うこととなります。

アメリカやフランス、日本などの西側諸国は当初台湾の中華民国政府を正式な中国として承認していましたが、

イギリスは香港で接する華南地域を実効支配している中華人民共和国政府を無視することはできず、

また中華人民共和国も西側諸国であるイギリスとの国交樹立を急いでいたことから香港返還問題は棚上げしたまま

1950年に西側諸国としては初めて中華人民共和国を国家承認して国交を樹立することになります。

 

しかしイギリスはなんだかんだいっても西側諸国であり、ソ連など東側諸国とは対立関係にありました。

国連においても常任理事国である中国の代表権をめぐり、西側諸国は中華民国政府を、東側諸国は中華人民共和国政府を推しており、

西側諸国でありながら中華人民共和国を承認しているイギリスは非常に難しい立場に立たされることになります。

 

そこでイギリスがとった作戦は「とにかく賛成する」こと。

 

国連では中華民国寄りの決議には西側が賛成し東側が反対し、逆に中華人民共和国寄りの決議には西側が反対し東側が賛成します。

しかしイギリスはこの難しい立場から中国絡みの決議には内容にかかわらずすべて賛成票をいれることとし、

どちらの立場にも肩入れしないいわば「中立」の状態を維持していたのです。

 

 

では棚上げされていた香港返還問題はどうなるか?といえば、実はそのまま棚上げされたままとなります。

というのも中国は朝鮮戦争への介入を皮切りに大躍進政策の失敗や中ソ対立などによって急速に国際的孤立を高めています。

その中で中国と国交のあるイギリスの植民地である香港は中国にとって唯一の西側諸国への窓口であり、

香港が返還されてしまうよりもイギリスの植民地のままであったほうが中国にとっても都合がよかったのです。

 

 

またこのイギリスと中華人民共和国との関係が香港の経済構造に大きな変化をもたらします。

第二次世界大戦前は香港は中国大陸と東南アジアなどとの中継貿易で栄えてきた都市でした。

しかし中国が共産化したことでその中継貿易に依存することが難しくなってしまいました。

一方で、これまで中国金融の中心地であった上海が共産党の支配下にはいったことで、

外資系の金融機関や企業が一斉に上海から逃げ出し始めます。

その避難先として選ばれたのが同じ中華圏の資本主義勢力下にある香港であり、

上海が一工業都市に戻る一方で香港が中華圏内における一大金融中心地にのしあがることになるのです。

 

また世界が飛行機の時代に突入したことでアジア各地にアクセスのしやすい香港の立地は

東アジア及び東南アジアの物流のハブとなることに充分に事足りました。

また中国大陸での文化大革命から逃れてきた人々やベトナム戦争の難民などが香港に集まってくるようになり、

香港の人口や経済力が急速に伸張し、同じくアジアで急発展を遂げていた東京とともに

アジアを代表する世界都市へと成長していくことになるのです。

特にイギリスの植民地であり、東京と異なり英語の通用度が高いことから

多くの多国籍企業が香港に進出し、アジア太平洋地区の拠点としています。

 

 

こうしてアジアで確固たる地位を確立した香港ですが、1980年代になってくると返還問題が再燃します。

これまでの返還問題はあくまでイギリスと中国の交渉次第というところがありましたが、

今回は1898年に租借した新界地区の99年間の期限が切れるという契約に基づくもので、

これまでのように中途半端に棚上げしたままにしておくことができないものでした。

これに対して時の英国首相マーガレット・サッチャー氏は中国が強力に返還を求めてくることはないだろうと

予測しており、新界地区の99年間の租借期限を延長する方向で交渉に入る予定でした。

 

しかし実際に中国側の代表で会った鄧小平氏は租借期限の延長を断固拒否。

イギリスに香港の返還を求めるようになります。

 

ではなぜこれまではイギリス領香港という存在が必要だった中国が返還を求めるようになったかというと、

この理由には中国国内の経済構造の改革が挙げられます。

中国はこれまで共産党の支配下のもと外資系企業の自由な経済活動には大きな制限をかけてきました。

そのため上海など主要経済都市にも外資系企業は少なく、香港が外国への窓口になっていたのです。

しかし1980年代にはいると中国の改革開放政策が進展して上海や厦門などに経済特区が設けられ

多くの外国企業が進出してくるようになります。

つまり香港以外にも中国にとって西側諸国への窓口になる都市が出来てきたんですね。

 

そうなると中国としては一大経済都市である香港をみすみすイギリス領のまま放置しておく理由はなく、

「約束通り返してもらおうか」という話になるわけです。

 

 

しかし思い出してみましょう。たしかに新界地区は99年間の期限をつけられた租借地域ですが、

その南の九龍半島と香港島は条約によって永久にイギリスに割譲されている土地のため、

新界のみを返還して香港の心臓部である両地域はイギリス領のまま保持するという選択肢もあったはずです。

しかしそうは出来ない理由は香港にはあるのです。

 

香港が経済的に大きく発展した理由としては冷静という社会構造や立地のほかに、

「積極的不介入」という香港政庁の政策も大きくかかわっています。

香港経済は自由主義に基づており、経済活動の制約が少なく税率が低いことが特徴です。

つまり、本当に必要なこと以外に政庁は関与せずに企業活動に任せるということです。

この自由度の高い経済を求めて多くの企業が香港に進出してきています。

しかし、税率が低いということはつまりそれだけ政庁の収入が少ないということにつながります。

ではどうやって政庁は稼いでいるのか?というと、実は新界地区の不動産収入だったりするんです。

 

香港は人口が急増した影響で住宅地が足りず、広大な新界地区でも大規模な住宅開発が行われていました。

香港政庁は新界地区の土地を開発業者に売却したり貸与したりすることで収入を得ており、

それが低い税率による少ない税収入を補うことにつながっていたのです。

つまり新界地区を失うということはこの重要な財源を手放してしまうということにつながります。

またこの住宅開発により新界地区には香港中心部に勤めるたくさんの人々が居住しており、

仮に新界地区のみが中国に返還された場合、毎日多くの通勤客が国境を通過することとになり

その手続きに膨大な手続きが予想されます。

 

そのため新界地区のみを中国に返還するというのはイギリスにとっては現実的なものではなく、

「新界地区の租借期限を延長しイギリス領のままとする」か「香港をまるごと返還する」かの二択だったんですね。

九龍半島と香港島ならまだしも99年間の期限を条件に租借した新界の返還を拒否することはイギリスにはできません。

当初イギリスは新界のみの返還も検討していましたが、上記の理由や鄧小平の強硬な主張により折れた形にになり、

1997年7月1日にイギリスから中国に返還されることになったのです。

 

これに伴い1984年中英共同声明が発表され、この中で香港では中国本土と同様の制度が適用されない

「一国二制度」を返還後50年間は維持されることが約束されました。

一方で1898年の天安門事件などを受けて中国共産党による一党独裁制度を嫌う香港人たちは返還を前に

カナダやシンガポールといった同じイギリス連邦加盟国へと次々と脱出していくことになったのです。

 

そして1997年6月30日から7月1日にかけて、当時のチャールズ皇太子ご臨席のもと盛大な返還式典が行われ、

かつて世界中に植民地を持っていたイギリス最後の植民地である香港が中国に返還されたのです。

それは栄華を誇った大英帝国の終焉を象徴するものとも言われました。

 

 

こうして中国領となった香港ですが、返還後もいろいろと話題には事欠かない地域となっています。

またそれは別に記事で。


東洋に浮かぶイギリス、香港

2022-11-11 15:03:40 | 旅行

アジアを代表する世界都市といえばどこが思い浮かぶでしょうか?

経済力世界一の東京か、東南アジアの雄であるシンガポールか、はたまた今やアメリカに次ぐ世界第二位の経済大国となった中国の首都北京か…

 
もしくはアジア最大級の金融拠点、香港の名前も必ず上がってくるでしょう。
香港は中国南部にある世界的な金融センターのひとつで、「100万ドルの夜景」を作り出す密集する超高層ビル群、ショッピングセンターに軒を連ねる高級ブランドショップ、絶品料理の宝庫である広東グルメで知られており、日本人には観光地としても知られています。
 
しかしこの香港、1997年まではイギリスの植民地となっていたことは、若い方の中では知らない人もいるかもしれません。
 
何故この東アジアの狭いエリアのみがポツンとイギリスの植民地となり、世界の金融センターになったのでしょうか。
 
 
さて、いまでこそ香港は中国南部のみならず世界的な大都市のひとつに成長しましたが、
かつて中国南部の中心都市といえば数千年前から広州でした。
現在でも広州は華南地域の中心都市で、北京、上海とともに中国本土の三大都市にも数えられます。
この広州は単なる地域の中心都市であるだけでなく東南アジアやインド方面からの玄関口ともなっており、
インドシナやインド洋地域の国々との貿易の拠点としての機能も持っていました。
 
明代の海禁政策後、清代になった17世紀終盤からはインド洋方面からヨーロッパ勢力も来訪するようになり、
広州では清朝による厳しい規制のものとヨーロッパ諸国と中国との貿易も行われるようになっていきます。
 
イギリスもそんな中国と貿易をはじめたヨーロッパ諸国の一つで、
中国からは高級品である陶磁器や絹、茶などを大量に輸入していました。
一方でイギリスから中国へ輸出出来ていたものとしては植民地であったインドの綿花や綿製品など比較的安価なもので、
また中国でも当然生産できるものだったため中国もそんなに買ってはくれません。
 
つまりイギリスは大量に輸入して少しだけ輸出するといういわば大幅な貿易赤字状態になっていきます。
 
このままではイギリスの富がどんどん中国へ流出してしまう。果たしてどうしたものか。
そこでイギリスは考えました。なにか中国人が欲しがる、高いものを中国に売れないか・・・。
 
「そうだ、アヘンを売ろう!」
 
アヘンとはケシの実から採取される果汁を乾燥させたもので、まぎれもなく麻薬です。
イギリスはこの貿易赤字を解消するために、インドで取れたアヘンを中国に売ることにしたのです。
これにより中国には大量のアヘンが流入することになり、港町などを中心にアヘンが蔓延しはじめます。
 
当然ながら清朝はこのアヘンを輸入禁止にするなど厳しく取り締まるようになりますが
イギリスは官吏を買収するなど密貿易を続け、やがてイギリスは貿易赤字から貿易黒字へ転換するほどの量のアヘンを
中国へ密貿易するように。これに対して中国は外国商人にアヘンを持ち込まない旨を記載した誓約書を提出させたり、
国内のアヘンを焼却したり無害化したりとアヘン蔓延を食い止めようとするのですがこれにイギリスは反発。
 
「そうだ、戦争をしよう!」
 
というわけで、他国に麻薬を密貿易しておきながら対策をされると戦争をしかけるというまさにイギリスらしい鬼の所業で
イギリスは清へ出兵を行い、華南沿岸地域を中心に各所を次々と制圧しこの戦争に勝利します。
これが1840年に起こった世に言うアヘン戦争というものです。
 
その結果イギリスと清朝は南京条約を締結し、上海などの開港や賠償金の支払い、
そして香港島のイギリスへの永久割譲が定められました。
これが香港がイギリスの植民地となった第一歩となります。
 
これに調子に乗ったイギリスは再びフランスと結託して清朝にいちゃもんをつけ戦争をしかけます。
こちらが1865年に起きた第二次アヘン戦争、またはアロー戦争と呼ばれるものです。
この戦争の結果、香港島に加えて九龍半島もイギリスへ永久割譲されることになります。
 
さらに列強諸国の中国進出が進んだ1898年、九龍半島よりさらに北部の深圳河以南の地域、
いわゆるNew Territories(新界地区)の99年間の租借に成功し、現在の香港の基盤が完成するのです。
 
 
こうしてイギリスのけっこう無茶苦茶な戦争の結果香港はイギリスの植民地になり、
イギリス資本主義のもと華南貿易の拠点として大きく発展していくことになります。
香港政庁により統治で競馬場や大学が開設されたほか後に極東最大の銀行となる香港上海銀行が創設され、
1935年には香港ドルが発行されはじめるようになります。
 
一方でこの20世紀初頭の中国における経済や金融の中心地は香港や広州ではなく上海であり、
ヨーロッパ列強のほか日本やアメリカが上海へ進出、東洋のパリと謳われ民族資本家が台頭するようになります。
この時はまだ香港は世界都市ではなく、あくまで大英帝国のアジアの拠点のひとつにすぎなかったのです。
 
 
ここから香港が世界の金融センターに発展していくのは第二次世界大戦後になってから。
大戦が終わり東西冷戦という新たな対立構造が出来上がったことによるものです。
 
 
 
さて、第二次世界大戦中の日本軍による占領から戦後の発展についてはまた次の記事で。

アンカレッジ経由は過去のもの?ーアラスカ

2022-11-11 08:36:04 | 旅行

 

アメリカの試される大地、アラスカ。

日本からはグアムやサイパンに次いで距離の近いアメリカ領のひとつとなっています。

このアラスカ州最大の都市といえばアンカレッジ市であり、アラスカの経済の中心地であるだけでなく、

北米を代表する港湾都市となっています。

 

いまの若者たち、とくに30代以下の人たちにとっては特に特別聞いたことがある都市ではないかもしれませんが、

特に1970年代から1980年代にかけて海外に行かれた経験がある方には非常になじみのある名前だと思います。

 

この記事では現在でもアラスカ経済において非常に重要な役割を担っている航空運輸についてお話をしましょう。

 

 

さて、第二次世界大戦後、日本はアメリカを中心としたGHQの占領下におかれることになり、

その後日本が国際社会に復帰した1950年代前半にかけて英国海外航空やエールフランスなど

ヨーロッパの航空会社も日本への乗り入れを始めていました。

しかし時はすでに冷戦期に突入しており、日本はアメリカや英仏などとともに西側諸国サイドにいたため、

ソ連や中国など東側諸国の上空を飛行することはできませんでした。

また当時はまだ航空機の性能も今ほどはではなく東京から西欧まで直行便で飛行することができなかったため

ロンドンやパリからは中東や東南アジアなどの都市を複数経由して日本までの航空路を伸ばしていたのです。

 

例えば東京ロンドン間のフライトの場合は直線距離では東京から北方向に飛行してロシアのシベリア上空に入り、

シベリアをひたすら西方のモスクワ方面へと飛んで行ったのちに北欧上空からロンドンへ向かうのが最短ルートとなります。

しかしロシア、当時のソ連上空を飛ぶことができなかったことからソ連の南側のルートを通ることとなり、

1952年のロンドン発東京行きの便はロンドンを出発したのちローマ、カイロ、バーレーン、カラチ、ニューデリー、カルカッタ、

ラングーン(現ヤンゴン)、バンコク、マニラと合計9か所を経由して東京へ向かっていました。

この「南回りヨーロッパ線」は東アジアへ乗り入れるヨーロッパの航空会社はもちろんのこと日本航空や大韓航空など

東アジアからヨーロッパへ向かう航空会社も利用していましたが、利用者からも航空会社からも評判はいまひとつでした。

 

というのも、この南回りヨーロッパ線は乗り継ぎが多いこともありかなり時間がかかってしまいます。

乗客にとっても苦痛な長時間フライトであることはもちろんのこと、乗員を管理している航空会社にとっても

途中の経由空港で乗員の交代などが複数回行う必要があるため人員管理が非常に複雑になってしまいます。

経由地によっては政情不安や天候などで遅延や欠航となってしまうこともあり、

また当時はまだまだ発展途上国であった地域を経由するため空港設備も先進国に比べて貧弱でした。

 

そこで考え出されたのが東京からカムチャッカ半島を回り込みアンカレッジに向かい給油、

その後北極圏やグリーンランド上空から西欧へ向かうという「北回りヨーロッパ線」でした。

この北回りヨーロッパ線では4か所から5か所の経由をしていた南回りヨーロッパ線に比べると

経由地がアンカレッジ1か所のみとなるため時間も人員管理の負担も大きく改善されることになりました。

そのため1960年代には多くの航空会社が南回りから北回りへとルートを切り替え、

欧州線のみならずアンカレッジ経由からアメリカ東海岸などに向かう北米線が加わり

毎日多数の航空便が東京とアンカレッジの間を飛行するになります。

特に日本航空は最盛期は貨物便を合わせると1日10便以上の航空便を東京とアンカレッジの間に飛ばしており、

アンカレッジ空港には多数の日本人が乗り継ぎのために訪れることになります。

そのためアンカレッジ空港には日本人を対象にした免税店やうどん屋がオープンするなど

欧米へ向かう多くの日本人に利用されることとなったのです。

ご家族が日本航空にお勤めであった劇団ひとりさんもアンカレッジに住んでいたことがあります。

 

 

しかしながら1980年代後半に入ると、外貨獲得のためソ連が上空を西側諸国の航空会社にも開放するようになります。

また航空機の性能も向上し、東京からロンドンやニューヨークなどへ無着陸で飛べるようになります。

その結果航空各社はアンカレッジ経由便を相次いで直行便へ切り替え、

1990年代初頭にはすべてのアンカレッジ経由の旅客便が姿を消すことになるのです。

 

そのため現在ではアンカレッジ経由便はおろか東京からアンカレッジへの直行旅客便自体がなくなっており、

東京からアラスカへのアクセスはシアトルなど北米の都市を経由していく以外にありません。

時代が進み世界が狭くなったといわれますが、アラスカに関しては逆に日本から遠くなったといえるかもしれません。

 

ではアンカレッジ空港が以前の賑わいを失ってしまったか?と言われたら実はそうではありません。

 

現在アンカレッジ空港は世界的な貨物ハブ空港となっています。

現在アンカレッジ国際空港はメンフィス空港や香港国際空港などに次ぐ貨物取扱量を誇り、

フェデックスやUPS、そして日本の日本貨物航空などもここアンカレッジにハブを置いているのです。

貨物便は旅客便と異なり、「いかに多くの貨物を一度に積載することができるが」がポイントになります。

そのため東京から遠方へのフライトでも積載量を抑えて直行便として運航するよりも

途中で経由してでも貨物を限界まで満載して飛んだほうが運航効率がいいのです。

またアンカレッジは北極圏近くに位置しており、東京やニューヨーク、ロサンゼルス、香港、パリ、ロンドン、フランクフルトなど

北半球のどの主要都市へも10時間以内のフライトで到着することができます。

そのため周辺には大きなマーケットがなくとも貨物空港のハブとしては非常に有能だったりするんです。

 

 

さて、ここでアラスカと飛行機にまつわる逸話を一つご紹介しましょう。

 

1971年秋、昭和天皇が香淳皇后同伴にて、初のヨーロッパ外遊に出掛けられます。

昭和天皇ご自身は皇太子時代の1921年にイギリスやフランスなど欧州訪問を行っていますが、

天皇に即位してからは初の外遊で、また歴代の天皇で即位後に日本国外を訪問した初めての機会となりました。

この時ベルギー、イギリスなど欧州各国を日本航空機で訪れた両陛下でしたが、

ヨーロッパへ向かう際に給油と休憩のためにアラスカにあるエルメンドルフ空軍基地に立ち寄ります。

その際に日本航空機から空軍基地に昭和天皇が降り立った瞬間が史上初めて歴代天皇が外国の地を踏んだ瞬間でした。

 

なおこの時にワシントンD.C.からはニクソン大統領が駆けつけ、昭和天皇との会談を行いました。

給油のための立ち寄りにも関わらず大統領がやってくるというのは歓迎の印のようにも見えますが、

実際にはニクソン大統領の訪中によりこじれた日米関係を修復するために企画されたとして

一部から批判された歴史も持っています。

 

近年ではめっきり減ってしまったアンカレッジ便ですが、現在でもチャーター便で運航がされている場合があります。

またフライトレーダーでは多くの貨物便が東京やソウル、上海などからアンカレッジへと飛んでいます。

かつての面影とは違った形で活躍するアンカレッジ国際空港、一度訪れてみたいものです。


ロシアが見える保守的州ーアラスカ

2022-11-10 22:26:51 | 旅行

さて、アメリカ最大の面積を誇るアラスカ州。

日本人には広大な大地やオーロラなど観光地としても人気があり、

一定の年齢層以上の方にとっては「飛行機の経由地」としてのイメージも強いでしょう。

 

このアラスカの歴史は前回の記事でご紹介しましたが、

今回は第二次世界大戦後の近現代のアラスカのTIPをご紹介しましょう。

 

話は少し変わるようですが、アメリカの二大政党というものをご存知でしょうか。

そう、共和党と民主党ですね。

2022年現在の大統領であるバイデン大統領は民主党の大統領、

その前に大統領職にあったトランプ大統領は共和党の大統領です。

 

歴代の大統領のうち日本人にも知られている大統領としては、

民主党はオバマ大統領、クリントン大統領、ケネディ大統領、フランクリン・ルーズベルト大統領、

共和党はブッシュ大統領(父子とも)、アイゼンハワー大統領、リンカーン大統領などを輩出しています。

 

この二大政党はそれぞれ支持層が異なっており、一般的に共和党は保守層や中西部など地方の白人層、

民主党はリベラル層や大都市の中産階級以上が基盤となっています。

ではアラスカは?というと、実はアラスカは非常に保守的であり、共和党が強い地域なんです。

ちなみにアメリカでいう「保守的」とはどんなもんなのかというと、

市民に対する政府の介入を出来る限り少なくする「小さな政府」を好み、

社会福祉や生活保護などよりも低い税率と自由、そして自分を守る銃を大切にするといわれています。

また敬虔なキリスト教徒が支持層に多くキリスト教の教えに反することを嫌う傾向にあり、

人工中絶や同性婚に対しては強く反対している人が多いといわれています。

 

このアラスカも保守王国のひとつとして知られ、大統領選挙でも保守党の候補が非常に強い州となっています。

ただし人口が少ないため選挙人は3人しかおらず大統領選挙でもあまり注目されていないのも現実です。

しかしこのアラスカ州が大統領選挙において世界的に大きく注目を集めたことがありました。

それが2008年に行われた第56回アメリカ合衆国大統領選挙です。

ここではアラスカに深くかかわる一人の女性が登場します。

 

 

この時民主党の大統領候補だったのがオバマ氏、副大統領候補だったのが2022年現在の大統領のバイデン氏です。

一方共和党の大統領候補だったのが共和党の大物マケイン氏で、副大統領候補がサラ・ペイリン氏でした。

 

このサラ・ペイリン氏はアイダホ州出身ですが生まれてすぐにアラスカ州に移住しており、

父親の影響で趣味は釣りと狩猟というアウトドア派。中学卒業後には共和党に有権者登録しています。

その後スポーツキャスターなどを務めたあと1992年にワシラ市議会議員に選ばれ政治に道に進むことになり、

その後若干32歳の若さでワシラ市長に、そしてその10年後、2006年にはアラスカ州知事に当選することになります。

 

アラスカ州知事になった2年後にはなんとアメリカの副大統領候補にまで上り詰めることになるわけですが、

ペイリン氏が選ばれた理由には大統領候補であるマケイン氏の政策にありました。

ジョン・マケイン氏は共和党の大物政治家である一方、共和党の中では「中道派」と呼ばれており、

同性婚や中絶を一部容認する姿勢であったため共和党の中でも最保守層からの支持を得られないのでは危惧されていました。

そのため熱心なキリスト教徒であり非常に保守的、かつ共和党の強力な支持基盤である全米ライフル協会の会員である

ペイリン氏を副大統領候補にすることで、保守層の支持をつなぎとめようとしたのです。

実際にもしマケイン氏が大統領に当選した場合史上初の女性副大統領となることもあって

共和党のみならず世界中から注目されることとなりました。

 

しかしながら結果は民主党の候補オバマ氏の勝利、マケイン氏の大統領への夢は破れることとなりましたが

この「戦犯」とされてしまったのがこのサラ・ペイリン氏だったのです。

 

「I can see Russia from my house!」

 

直訳すると「私の家からはロシアが見える」、日本では一般的に「アラスカからはロシアが見えるの」と略されます。

これはペイリン氏が大統領選挙活動中に発したフレーズで、たしかにアラスカからはロシアを臨むことが可能ではあります。

しかしどういう場面で使われたかというとこれは実はABCニュースでの一コマ。

2008年に起こった南オセチア紛争などで揉めるロシア情勢に関する質問を受けた時のことでした。

当然ながら記者はペイリン氏に対してロシア情勢に対する識見を問うた質問だったのですが、

「アラスカからはロシアが見えるのよ」というまったく的外れな回答をしてしまったのです。

このほかにも様々な討論やインタビューでおぼつかない回答を連発し、ペイリン氏は政治家としての資質に疑問符がついてしまいました。

このフレーズはその代表的なものとして広く知られています。

 

またもうひとつペイリン氏の見識の浅さを象徴するインタビューとして「建国の父」というものがあります。

これはインタビューの中で「尊敬する建国の父は誰ですか?」という質問に

「私は建国の父全員を尊敬しています」と応えたものでした。

ここだけみるとなんだかニュートラルな回答にも見えるのですが、

実はこの「建国の父」という質問はこういった大統領選挙などでは定番だったりするのです。

というのも、この「建国の父」というのはアメリカ合衆国独立宣言や合衆国憲法に署名をした人々を指すのですが、

この建国の父には様々な出身地や職業の人がいました。

その人々がそれぞれ異なる国家観を持っており、彼らの誰を尊敬するかによって

その政治家の国家に対する考え方や政策の方針などを指し示すものなのです。

しかしこの質問に「全員です」と答えてしまうことはまるでペイリン氏に定まったポリシーがないかのように移り、

共和党陣営からも副大統領候補として不適格なのではないかという声があがるほどに。

 

日本でも首相候補が一番大切だと考える政策を「全部です!」と応えられたらえ?とは思ってしまいますよね。

 

こうして結果的に共和党敗退の戦犯扱いされてしまったペイリン氏は2009年にアラスカ州知事を辞任。

2012年の大統領選挙に向けての出馬準備とされていましたが結果的に出馬せず。

その後2022年に連邦議会下院選挙にアラスカ州より立候補するも落選しています。

 

なんだかアラスカに関する記事というかペイリン氏の記事になってしまいましたので、

アラスカの政治がらみの簡単なTIPをご紹介しましょう。

 

 

アラスカ州は前回の記事の通り、石油収入が州の歳入を大部分を占めており、

これに加えて連邦政府からの交付金で州の財政を賄っています。

逆にいえばこの石油と交付金で財政が賄えているともいえ、

消費税も所得税もないという全米で2州しかない税負担の軽い州となっています。

(ただしホテル税や酒税、たばこ税など個別に税金が課せられている項目はあります。)

 

こういった軽い税負担からアラスカ州は事業に優しい税制度を持つ州の一つに数えられており、

ワイオミング州、ネバダ州、サウスダコタ州に次ぐ第4位とされています。

 

もし寒いところが得意で英語が喋れるのであればアラスカで企業するのもいいかもしれませんね。

 

さて、この記事は一旦ここまでとします。

次回の記事ではアラスカとは切っても切り離せない「航空」分野に注目をしてみましょう。