★一番下に訂正を載せています。
「第六章 新星雲紀」、添文は「かがり火のもと、夜はつどえり。夜は旅人の胸に入りて そのおそれとはじらいのしるしをかかげぬ」です。終盤ですし、今日は時間があるので、本日中に読み終わりそうです。次に読む作品も決めています。記事にするかは決めていませんが、待望のアンドロメダ・ストーリーズの漫画版です。しかも大型本(雑誌型)を入手できました。弥勒像と阿修羅像をミックスした例の像がどう描写されているのか、イルの描写がアニメ版と違うという噂は本当なのか、などなど、今から楽しみです。それでは感想に移ります。オリオナエはいつの間にやら活動可能になっていてほっとします。かなり酷いやられ方をした描写がありましたので。シッタータ視点で語られる事が多いようです。変化の時代を新星雲記と呼ぶ、というのは何だか痺れますね。正に新世紀です。ちなみに星雲賞というネビュラ賞をもじった賞があることを以前紹介しましたね。ご興味のある方はぜひ両賞を受けた作品群からSFの世界に入っていただけたらとても嬉しいです。それにしても物語が終わりに近づくのは少し寂しいような気もしてきます。再読においては、あらすじが判っているので当然、細部に目が行き届きます。本作のような衝撃の大きい作品では、ついつい話に圧倒されてしまって、細かい表現をなおざりにしてしまう私の性格に、再読はとても合っていると感じました。
早朝の中神社で特記事項がありました。お供えに置いた小さなお酒がないのです。一番に考えたのは誰かが盗った事です。しかし、この地域でそんなことをする者がいるとは非常に考えにくいです。地域と言えば、何らかの地域の禁忌に触れて撤去されたのかもと次に思い浮かべました。中山間地としては非常に開明的なこの地域ですが、私の知らない何かがあるのかもしれません。派手でポップな虎の干支柄がよくなかったのか、もしかして置く場所が不味かったのかもしれないと観察すると、拝殿奥にある奥の扉が目につきました。あの扉の中に入れるべきだったのかもしれない、と思い普段は足を踏み入れない奥へと進みました。すると一番奥の賽銭箱の中に以前私の置いたお酒が転がっていました。風雨のせいで転がり落ちたのか、そう言えば参道の小さな松ぼっくりのようなものが大きく数を減らしていると気づいていたはずなのに、と自らの観察力と統合力の無さにガッカリしました。同時に自分は改めて俗にまみれているとも痛感しました。まっさきに思い浮かべるのが泥棒かよ、という点に人間としての格の低さを感じました。まあ、出家した僧侶ではないので、そこまで思いつめてはいませんが、とにかく発想が貧困なのは事実なようです。探偵にはなれそうにもありません(笑)。まさに迷探偵とはよく言ったものです。
脇道にそれたついでに、食事時につばさがいつもおやつをおねだりしてくる件について、少しだけ補足しておきます。私は結構、スパルタです。「草テチかちゅ~」といつも書いていますが、たまには丁寧に説明をしておきます。以前決めたこの略称は、最強の整腸剤である猫草に口内炎の薬であるテラ・コートリル適量と風邪対策のすり潰したチョコラBB+を十分の一粒分、それにかつおぶし(最近省略気味)を振りかけた後でちゅ~るを適量かけてよく混ぜて作るおやつです。工程順に略称を決めたので、最近は工程を間違えることがほぼありません。たとえば、先にチョコラBB+を振りかけると、テラ・コートリルを乗せる時に薬剤にチの粉が付いていとわろしなのです。ちゅ~るを最後にかけるのも同じ理由からです。で、スパルタというのはちゅ~るの量です。猫草は余り多量に与えると体に悪いはずなのですが、ちゅ~るの量もギリギリに少なくして薄味に慣れさせています。ちゅ~るを突然食べなくなる猫が居ると聞きます。できるだけちゅ~るに飽きる時期を後ろに伸ばすために、与えるちゅ~るの量は極限まで減らしています。これを書いていて、はっとしました。重篤な持病を複数持つつばさはあと何年生きられるのだろうか・・・。つばさは数回、猫草を残すのですが、その度に床に落とした猫草を集め、裏返しにしてやるとまた食べることが多いです。草の裏にちゅ~るが残っているためです。どうしても食べなくなったら少量のちゅ~るを足します。これを繰り返します。猫草をほどほどに食べたらその時点で中止します。あとはウインナーを少しだけあげて、これで終わりだよって言葉と手ぶりで伝えます。猫草小皿の整備のために霧吹きをすると、私の作業を眺めていますので、これが草終了の合図として認識しているのかもしれません。猫の事は猫しかわからないとは思いますが。そういえばプラトン=オリオナエはアテネでしたね。いい感じで物語に戻りたいと思います。
なんとも言いようのない虚しさしかありません。355ページ、首席、一緒に来る気配がないです。ここも改変なのでしょうか。しばらくで、第六章が終わってしまいました。主席は遂に来ませんでした。萩尾氏による大きな改変であることがはっきりしました。なかなか大胆で、良い改変だったと思います。ドラマティックにもなりましたし。ふたつの銀河の話も上手く組み込みましたし、しつこいようですが名作を漫画化する上で萩尾氏をおいて他にはなかったと言えます。
「第七章 最後の人々」、添文は「北方に柵あり。柵に符ありて曰く。宿星、これにかかるとき空、焼く。かならず憂いあり」です。もう読書以外の事、例えばwowsを間に挟む気持ちなんて起きません。昼ご飯がまだなのは体に悪いですが、なんだか食欲もありません。つばさは寝てて相手をしてくれませんし、トイレもしていません。残りは五分の一を切っています。読むしかありません。ありました、名セリフ「な、な、なにをするんだ!」。おいおい。やはりイエスのキャラは良いですね。阿修羅王による盛大なネタバレタイムが続きます。凄惨です。そしておそらくはクライマックスがやってきました。阿修羅王ですら恐怖を覚えるもの。いつのまにか主体はシッタータから阿修羅王に移っていました。主人公キター! 永劫の門。まさにゴルゴダ・オブジェクトです。あくまで個人の感想です。別に全ての願いをかなえてくれるわけではありませんので。382ページ、なるほど柵か、と言葉もなく、自分の表現力の乏しさに悲観する暇もなく、物語は進みます。無数のラミエルもしくは巨神兵に繋がるかのような、はたまたそれ以前にも多数あった細かい描写もすばらしいのですが、物語の言わんとすることが、ずっしりとした物理的な重みをもって、心にのしかかってきます。なんちゅう話を半世紀前に完成させていたんですか、光瀬先生。結局、帝釈天は漫画版だけだったと、この時点で断じて良いでしょう。萩尾先生による涙の演出も素晴らしかったと改めて思います。と思っていたところ、そうでした、ここで現れるのでした。漫画版は手元にありますが全く開いていませんでした。ですが、これは虚像か、心理攻撃か、記憶の中の過去の出来事なのか、漫画版を見る気が起きません。一神教から二神教へと思いは移ろいます。三人寄れば文殊の知恵。第七章が終わり、最後の目的地へ向かいます。
「第八章 遠い道」、添文は「旅人、去りしあとにつぼあり。村人、つぼを樹に懸く。(改行)旅人、もどりて言う。このつぼこそ汝らの故郷なり。と。」です。たしかに壺ですね。さて、結局のところ、帝釈天と涙の下りは萩尾先生の発案で決まり、という事がわかりました。いや、光瀬先生も噛んでいたかもしれませんけど、漫画版のみでのなかなか素敵な描写ということは確定ですね。いよいよ最後の章で、ここを終えると残りはあとがきだけとなります。追記部分とは一体どこなのか、非常に気になっていますが、とてもではありませんが私の記憶に頼ることはできません。これは以前所持していた版を買って、比較するしかないかもしれません。そこまでするか、と言われると、お恥ずかしながらするかもしれませんね。つばさが起きました。いや、寝ぼけているだけのようで、また熟睡に戻りました。夕方にはご近所さんに御願い事があるのですが、なんだかさっさと読むのがもったいない気がしてきました。ちょっとやることの順番に悩みます。陽が強くないのでベンチでタバコを吸ってきます。
ちょっとのめり込み過ぎたようです。家の周りのいつもそこにある豊かな自然や人の営みの有難さを強く感じました。これこそがこの作品の真価なのでしょう。井戸水を溜める外の巨大バケツに致命傷を発見しました。修理のタイミングはまだ先です。慌ててもしょうがありません。明日の朝には溜めた水はなくなっているでしょう。その時に補修を行います。水面で苦しんでいる虫を、何故か外に出してやりました。別に命を大切にとか思った訳ではありません。ただなんとなくです。普段は放置して絶命するのを待つ虫でしたが。また、色鮮やかな毛虫を裸足の先に見つけました。静かに迂回しました。さぞかし巨大な蛾になることでしょう。鳥に見つかるのは時間の問題のような気もします。準備は整いました。粛々と最終、第八章に進むことにします。
早速ですが、唖然としました。私が無謀にも空想し、書きたいと思っていたテーマがここには記されていました。呆れたことに、三十年以上前に見た夢の欠片を私はいまだ追い続けていたのです。具体的には書きたくありません。私の書いたものが完成することはないでしょう。見果てぬ夢というやつです。まずもって能力がない、更に時間もない、したい事が他に多すぎるし既に今後数十年間楽しめるだけの物品が家に揃いつつあるのです。人の寿命のなんと短い事か。出来る事だけをしていこうと心に留めました。その点、私はかなり、超のつく現実主義者なのです。
錫は銅との合金として青銅になり、鉄にメッキしてブリキになります。名称からの印象に反して毒性はなく、逆に滅菌効果があるとされています。純錫の酒器を製造する会社が富山県高岡市にあり、酒の味が変わるそうな。この仕組みは未解明とのことです。正倉院の宝物にもあるらしく、最後の晩餐の食器も錫製品だそうです。井戸を掘ると錫を投げ入れる地域もあったとか。貴重な情報もネットには転がっているものです。株式会社、能作をここにご紹介しておきます。フィクションを現実が超えた例かもしれません。テクタイトについても解明されており、隕石の落下、爆発により上空で作られた天然ガラスだということです。こうゆうことを書く点に私の現実的な一面が見え隠れしています。あまり重要な件ではないし、揚げ足を取るつもりもありません。ただ、事実はこうだ、と言いたかっただけなのです。現実は小説より奇なり、です。
話は壮絶な展開を続けます。瞬く間に時は過ぎ去り、ご近所さんからと思しきラインの通知音がしました。ほぼ読み終わりと同時でした。本書の帯にはこのように書かれています。2001年のフェアのようですね。
まったくもって同感です。二十二世紀でも、二十五世紀でも読み継がれていってもらいたいと願っています。
さて、念願のあとがきです。私の記憶を確認する時間がやってきました。438ページの二行目と三行目を読んで赤面しました。わたし、完全に無意識だけどパクってるやん! あちゃー、という穴があったら入りたい気分です。無意識恐るべし。同頁最終行、うわぁ、光瀬先生までも・・・。記憶にあったよりもずっと短いあとがきで、かなり驚きました。次のページの表現も、パクっている自覚があります。もうオマージュとは言えません。私もかなり重症のようです。さて、加筆・訂正は極僅かだということです。であれば、改訂前の物を入手する必要などない、と思われるかもしれませんが、そうは問屋が卸しません。重大な事実があります。私がオマージュした、例の下りが、あとがきから削除されていたのです。これに今、強い衝撃を受けています。光瀬先生の意思を尊重するならば、今更改訂前の物を入手して、ブログに書くというのは悪趣味極まります。それがたとえ3人ほどしか目にせず、流し読みで、該当部分にまで目を通さない事が明らかであったとしてもです。
お茶とタバコで落ち着いて、などとするまでもなく、私の腹は決まっています。道は一つしかありません。入手し、ブログには書かない。ファンとしては、これしか選択肢はありません。毛虫はまだ移動をしていませんでした。私の通り道なので、いつも使っている二本の枯れ枝をお箸のように使って、庭の草むらに放しました。あくまで、通り道の邪魔になるからです。さて、メルカリに行きますか。【完結。一応ですが・・・。】
★訂正
やはり記事は完結していませんでした。訂正があります。Wikipediaによれば、私の記憶違いによる間違いがありました。両先生の間の電話での相談で、正確には阿修羅王の性別を問うたのは光瀬先生の方でした。原作では、登場時に「少女」という記述があり、またWikipediaに、より正確だと思われる記述がありました。訂正します。
なお、Wikipediaには捨て置けない記述もありました。改訂前のあとがきを評して『早川文庫(旧版)にあった特異な「作者あとがき」』とあり、失礼な言い方ではないかと感じました。特異より特殊の方が適切ではないでしょうか。ログインして訂正しちゃおうかな。早速ですが、訂正してきました。
せっかくなので、ウェブ上の感想でも見てみます。「ライトノベルの嚆矢の一つ」とあり、ラノベってこういうのなのかなと思いました。ラノベは読んだことがありません。実は手元に1シリーズだけあります。平井和正氏の作品ですが。「日本SFの金字塔であり、ギリシア神話×仏教経典×聖書×量子力学をかけ算したような作品」とは完全同意です。100点満点で120点をつけている記事を発見しました。勢い余ってリンクを貼っておきます。
ttps://www.ehkmh.com/entry/Hyakuoku_no_Hiru_to_Senoku_no_Yoru
このhなしは、今どき通用しないらしいですが、作法として削っておきます。とにかく全面肯定の記事でした。
さて、次はアンドロメダ・ストーリーズの原作に取り掛かるのですが、その前に一つ、記事を書きたいと思います。ご近所さんに修理の相談をしてきたのですが、それは本の箱です。私としては珍しい写真中心の記事になります。「義士大観」という本です。