★更に更に追記をしましたが、表示は辞めにしました。見ている人が少ないから、不要と判断しました。
★さらに追記を行いました。前半三分の一くらいのところの「★~ ~★」の部分です。
★投稿日の夕方~夜に少しだけ追記を行いました。一番下の★です。内容も真ん中やや下の「★~ ~★」の部分を追記しました。
とあるライングループへの投稿の転載(一部削除済み)です。ついつい、ブログの下書きを、いつものように、みんなにうっとおしく思われながらもライングループへ送信し、毎回のことながら、この場を借りて謝罪いたします。って、誰も見ねーよ、これ以上の事が書いてるんだからw と思ったらついつい書き足してしまった事も多いです。訂正いたします。
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DJは小学校卒業時に私がなりたかった職業です。
ラジオは元々大好きで、Wデッキの「QT-Y5」というラジカセを買ってもらった時はよく覚えていて、凄くうれしかったです。よくテレビに近づけて、「ザ・ベストテン」とかを録音していました。こうして自然と、とある同居親族のレコード達(触る時は割らないように、傷つけないように、びびってました。クイーンとかザ・ポリースとかKISSとかケイトブッシュとかカーペンターズとかロキシー・ミュージックとかよく知らないアーティストとか、それはもう超優良企業に勤める親族の財力で膨大なレコードがありました。このブログを見たその親族からは、あれは超優良企業だったのかって返事が来て面白かったです。当時は20万もしたシステムコンポも触らせてもらえて、多くのレコードをカセットに録音しましたし、もちろん雑誌のロッキングオンも毎月、読ませてもらってました。「陽一さんのもしもし編集室」は必読でした)が大好きになったマセガキでした。古本屋で、はした金でとある漫画のセットを引き取ってもらい、その後、「馬鹿だな」との趣旨の言葉を言われました。ついでに「小遣い位、あげるのに」とも。貰えませんでしたけど。
たかじんや深夜ラジオを聴いてたのもこの時代の前後です。ハローナショナルショールームというラジオ番組で、とあるバンド(エコーズですね)のボーカルを𠮟りつけ、生放送中に泰葉一人になって、観客が「おー!、ざわざわざわ」っなってたのをラジオでドキドキしながら聴いていました。楽屋でたかじんが椅子を蹴り飛ばす音も聞こえたような気がします。そのボーカルの人は、いまやすっかり作家の先生(辻仁成氏です。「辻仁成、たかじん」で検索したらこの事件とその後が出てきます)です。たかじんの葬儀では感謝の意を示し涙したと聞いています(ちょっと記憶違いもありました)。いい話ですので、詳しくは泰葉のようつべチャンネルへどうぞです。上記の検索もよろしければ。若い時のたかじんは、尖っていたなぁと懐かしいです。
幼稚園保育園の時は、よく園長先生の膝の上に居ました。心地よい日差しの下で、ちょうどいい大きな岩の上に座る園長先生の膝はみんなで取り合いです。初恋の人の名前は書きません。よく覚えていますが、その子の家で、姉の物だという凄く大きな琴の弦を切ってしまい、オロオロしてたのが懐かしいです。当時の私の手の指が異常にやわらかくて、指の付け根の間という信じがたい位置に擦り傷を負いました。秘密基地の周辺の藪を走っていて、口の中に蜘蛛が入ったのでそのまま食べました。多くの人が当時を振り返って、「あの頃は金髪ぽくって可愛かったのに」と小学生以降、頻繁に言われるようになりました。こうして、徐々にひねくれていきました。
小学生の時は司法試験を意識しててウチにある六法全書を読んでいました。公認会計士も少しは気にしたのですが、弁護士の方がよりバトルっぽかったからです。早くも中二病全開です。以前書いた通り、低学年で将棋の奨励会を諦めました。こっちのバトルには早々に敗北しました。自分でも驚くほどあっさり諦めました。ヘルニアの兆候はこの時代からありました。姿勢が良すぎる、と素人目で言われたものです。本当はクッションの利かない悪い姿勢だったと判明するのは数十年後の話です。一度だけ、急性の症状に見舞われました。小二か小三でした。これも前に書いたと思います。下校時はいつも走って帰りました。決まった場所で走り幅跳びをして、距離が延びるのが面白かったです。★~読むことは好きで何でも読みました。スポンジのように、例えば薬の効能書きなんかも訳も分からずに読むのが好きでした。一方、~★作文は嫌いでしたが、小二の時に何かに出品しました。先生の添削で原型を留めないほどに変化させられ、大人の世界を垣間見ました。「くろべのつんこぎつね」の感想文でした。どんどんひねくれていきました。
中学時代は通信添削を始め(正確には小六の終わりからで、「子供料金で電車に乗れるのは最後だ、今、一人でどこかに出かけろ!」という煽り記事が印象深いです。行きませんでしたが。)、かつバトル傾向が変な方向に出て、少年工科学校志望(現高等工科学校です。結局、親に止められました)という謎スタンス、更なるバトル傾向により、ボドゲと宇宙とSFとミリオタとパズルに目覚め、SFマガジンとコンバットマガジンとタクティクス誌とニコリを愛読するという度し難いガキでした。小遣いはすべて雑誌と本とレコードとカセットテープとプラモに消えました。お菓子なんぞ一切買えませんし、友達とのお金のかかる付き合いもできませんでした。まあ、おごってもらいましたが。塗料は高すぎて親におねだりでした。完全にバトルな自分が形成された時期でした。その道に進めば、空自の一佐(大佐)にまではなったのになぁ。ポストに空きが出て、部下の不祥事が無く、衆議院議員二人の推薦で准将、更に空将になってたかもですね(まあ無理ですが)。仮にそうなりゃ悠々自適です。まあ、今もそれなりに悠々自適ですけど。この推薦制度は、豆知識です。こうゆう点にシビリアンコントロールを利かすシステムがあるのです。ひねくれ具合も中々のものになっていきました。
高校時代は塾にも行かず、上のバトル趣味が大加速、テストは毎回一夜漬けの日々でした。ボドゲ部の先輩が留年して同学年になっちゃいました。異常に短距離走が早く、50mを6.9秒で走っていて、走り幅跳びはふざけて飛んで4.5mを超えていました。タイムを基準に体育大会では短距離走に選出されるも、運動は一切してませんでした。まあ、通学時に普通は15分かかる自転車をタイムアタックしていたくらいです。7分を切った、とか言って、一人で何かと戦っていました。速く走れば車に轢かれない理論を謎に組上げていたのもこの時期です。で、体育大会では見事に途中でこけました。頭のイメージに足が追いつかなかったのです。高1から鍛えて、スパイク履いたら、100m12秒台は余裕で行ったはずです。持久走は苦手で大嫌いでした。高2の冬山登山は仮病で欠席しました。高校時代、唯一の欠席がこれです。後で友達に仮病とバレて、じゃれる程度に殴られました。これに参加してたら、食堂の無料うどん県、じゃなくてうどん券がもらえたのは惜しい事をした、と思いました。ただ、みんな泥だらけになって楽しかったそうです(棒)。私は嫌です。人生最大のモテ期でした。成績は上位2割くらいには食い込みましたが、たった一回だけある高3の実力テストだけは不思議と2位でした。1位は知らない女子でした。当時は堂々と結果が廊下に貼られていて、例の級友にカンニングしただろと軽く殴られました。少額のお金をかけてカブを教室でしてたら、例の友達にもうやめよう、と言われるくらい熱中しました。麻雀カードは他教師からのタレコミがあって、突然乱入してきた担任に一部を取り上げられ、プレイ不能に追い込まれました。捨てられたのか、返ってきませんでした。タバコは吸いませんでしたが、友人の中では原付が流行っていました。ひねくれ度合いが頂点に達しました。
現状は、プロフの通りですが、補足すると、超の付く合理主義者かつ科学技術至上主義者で情報が古いです。★~結果よりも過程を重視する姿勢です。事象を戦略、作戦、戦術の各レベルに細分化して考える癖があります。情報統合はやや苦手な分野ですが、分析と統合は重要な道具ではあります。平和と人命に勝るものは無い、という価値観を持っています。~★ マルキストではありません。暴力と差別に反対、不服従、民族自決、反新自由主義、反個人責任論、国民による国家権力監視不足による結果は国民が甘受せねばならないと考えます。ガンジー派の変形で、ヨガとは一切関係ありません。フェスは好きで、ヒッピーの友人も居ます。つばさがいるので、もう二泊か三泊が限界ですが。徴兵制には興味がありません。今の日本では、軍事的に言って不必要で議論する必要すらありません。簡単に言うと、日本は相対的に人口が多すぎ、かつ今の陸軍兵士は高度な兵器オペレーターでないといけないからです。ここ何十年かの人民解放軍陸軍のリストラぶりを見てください。ざっくり半分になっちゃいましたよ(今回の事態で、ロシア地上軍の常備兵力が19万、総兵力が90万とおおきく報道されました。これの意味するところは、地上軍は少なくてよく、支援の軍が非常に多い。その支援軍は専門職集団である、という事実です。)。人民解放軍空海軍の増強はとてつもない脅威に将来なります。是非は置くとして、陸空軍主体の地続き国家イスラエルとは状況が全く違います。まあ、これは非なんですけど。今の自民党の改憲案には反対で、改憲には「憲法改正の限界」という自己言及のパラドックスがあると見ています。「私は嘘を言っています」と同じ構造です。でも、可能な改憲の一部には賛成です。自衛隊は容認派です。ただし条件付きで、防大でのイジメ自殺とか許せませんし、縦社会の体育会構造は大嫌いです。筋肉脳の方は、こっちからお断りです。防大卒と四大卒の隊内差別も、呆れてものも言えません。米軍基地にはさっさと出ていってもらいたいです。原発は国民責任です。
で、DJの話に戻りますが、家の三件となりの女の子、幼馴染で同じ小学校三年〇組の●●〇〇ちゃんがカタカナで「ディスクジョッキーになりたい」って書いてたので、対抗意識から私はアルファベットで書いたら、Jの字を逆に曲げてしまって、半泣きで先生に修正液を借りました。何かの寄せ書きみたいなやつで、原稿がボールペン書きだったのです。修正液という物を初めて見ました。存在は知ってたのですが。
〇〇ちゃんには、よく長い爪で引っ掻かれたものです。たいてい、私のいたずらが原因です。何故か同じ班で、よく掃除の仕方が下手だと叱られました。「掃除のときはどこ見るか知ってる?」とか遠回しに言われて、まるでお姉さん気取りです。名前に「美」の字が欲しかったって言ってたので、「〇美」でいいやん、と密かに思っていました。ネコ目の子でした。
DJも、オンラインヨガのインストも、ユーチューバーも声質は重要ですね。
ソエルを始めて、インストの声質の重要さを感じました。
つばさは日光浴と同時にストーブに当たれる絶妙な位置に座っています。
さっき、第三モニター裏を経由して、南窓に移動したので、部屋を締め切り、午後早くで暖かいですが過保護にも弱い暖房を入れました。
これらは一部を削除した上で、ブログに転載します。というか、途中から完全に意識的にブログの下書きとして書いちゃったw
★ふと思ったのですが、「物心ついてから高校卒業まで+現時点だけの自分のまとめ」は、なかなか良いかもしれません。重要な過程である高校卒業以降をあえて飛ばしていますが、高校までの過程がどう今の自分に影響しているかを、各個人が振り返るのも一興かと思います。「結論よりも過程を重視する」という姿勢を書き忘れていましたけど、これの追記もしようかな(しました)。もしよろしければ、「まとめ」を試していただいて、直接送っていただければ、こちらに掲載いたしますので、リア友の方々、よろしくお願いします。その際、個人情報保護の観点から伏字にさせて頂くこともありますので、あらかじめご了承ください。リア友でない方はコメント欄に長大な文章を載せて頂ければと思います。まあ、なかなかやりにくい事だとは思います。突然、宇国では最悪な状況が始まりましたので別記の予定です。
そこそこの反応を頂いております。有難いことです。誰か、原稿、送ってきてちょうだいー♪
★私とロシアの関係、というほどでもないのですが、少し触れておきます。単なる昔語りです。
園児の頃、世界には米ソという二大大国があり、双方ともに同盟を組んで対立している事を知りました。親からは「どっちもどっちだ」としか聞かず、あまり関心はありませんでした。
小学生になってかなり文字が読めるようになると、なんでもかんでも読みましたが、その中のムック本に(KKワールドフォトプレス社のものです)、米ソの核対立についての記述があって、恐ろしいと思いました。この頃は強くないと国際社会で生き残れないから自衛隊を強くしたらいいと単純に思っていました。日米安保なんて理解できていませんでした。このムック本には、かなり細かい所まで載っていて、隅々まで読みました。今でも一部を覚えています。主に核戦力の現状を分析・紹介した、分厚くて、写真のたくさん載ったムック本でした。戦時に米大統領が移動するシェルターの推測などまで載っていました。
その本に注目すべき記述があり、一気にソ連が気になり始めました。概ね「第二次世界大戦でソ連は人口の一割を遥かに越える二千万から二千五百万の死者を出し、ナチスドイツ敗戦の大きな力となり、戦後、国連安保理の常任理事国となった」というものです。この数字には子供でも驚きました。ちょっと検索してみます。今のwikipeの死亡者の数字は「千八百万から二千四百万」とあり、記憶の数字は少しだけ多かったようです。ですが、全人口の13.6~14.2%が死亡したというのは異常です。この衝撃に小学生の私はかなり驚き、どうゆうことをしたら、こうなるのか、と疑問を持ちました。年齢が上がると共に、徐々にその理由が判ってきました。並行して、ロシアの文化や言葉、色々な民族などに興味を持ち始め、逆にソ連政府とロシア政府は酷い事ばかりすることに憤りを感じていました。
数年前に上坂すみれ氏を知り、同じような人もいるんだなあ、と思いました。
その二、三年後くらいにプーケットに一か月滞在しました。もう何年の出来事かばれちゃいますが、中国人がツアーに来なかった年です。プーケット沖合でその原因となった船が見えました。引っ張られて行くシーンも見たような気がします。写真もあるはずですので、あったら後で追加します。その年は自由旅行をする中国人は居ましたが、大群でいたのはロシア人だけでした。彼らはたいてい、陽に弱い肌をさらけ出し過ぎて、火傷している者もちょくちょく見かけました。一か月も居たのでなじみになったロシア人もいましたが、すぐに居なくなりました。そんなに長居はしないのです。長くて一週間くらいでしょうか。自由旅行の人は世界各国から来ていましたが、圧倒的な数を誇るのがロシアからの集団のツアー客でした。私はロシア人の海を掻い潜って、毎日海に行っていました。ややこしい表現です。ただし、晴れの日の昼前後は行きませんでした。日差しが危険でしたので。朝と夕方が多かったです。そして、ふと、例の死者数を海の上で浮きながら思い出しました。ロシア人が狭い街の歩道ですれ違う時に何故、道の譲り合いをしないのかと考えていた時でした。いま、プーケットでバカンスを楽しんでいるロシア人は、あの時に死ななかった生き残りの子孫だって気づきました。祖先や親類に必ず死者は居たでしょう。地域によっては酷い事になっていたと思います。その根絶やしにされなかったロシア人等たくさんの民族の子孫には、祖先から伝わっているはずです。「危険な時は、自分だけを大事にして、とにかく逃げろ」と。映画のシーンのような光景が頭をよぎります。逃げるための最後の貨車のもうないスペースの中に、人を押しのけてでも乗り込もうとする人たちの姿を。逃げなかった人は全員死んでいて、子孫をのこせなかったのではないでしょうか。同様に、苛烈な歴史を経た国は枚挙にいとまがありません。
その一つが中国です。戦争があって、革命があって、文化大革命でとどめをされました。中国人とロシア人はなんとなく似ていると感じます。私が文化や言語、民族などに興味を持ち、政府は両方とも酷いと評価しているのも共通しています。中国には通算三か月滞在しました。台湾には通算一か月滞在しました。中台の違いは歴然としています。台湾人民は大きく三つに分けられ、元々居た人たち、16世紀以降に来た漢族、1949年頃に来た漢族の三つです。同じ漢族(ハンズー)でも、大陸と台湾では全然違います。当時は服装の色合いからして違いました。いまの中国は街こそ綺麗になっていますが、民族性はそれなりにしか変化していないようです。意識高い系の人の発信をたまに見かけるようになりました。旅のエピソードは別記事で時間のある時に書きたいです。写真も膨大にありますので。