ちょこちょこ通っていたお店にダンスホールがありました。
そこもジュリーと縁のあるお店でした。
と、ジュリーの話は一旦終わって・・・
そこは京都河原町を四条から少し下がった所でした!
マスターをしたかったのは「タンゴ」でした・・・
ラ・クンパルシータに代表されるように、あのリズム♪
パッ、パッ、パッパッ~、タラララ~ラ~ラ、パッ、パッパッパッ~♪
ああ~、素敵な男性にリードされて踊りたかったな~😆
かの昭和の大スターが持ち込んだとかどうとか???
↑ 現役で今回新曲もリリース・・・83歳ですよ😁
と、まだまだ書き足りない事もいっぱい・・・
でも、ちょっと「もどき主婦」してきま~す😁
夏休みになると町内行事に
琵琶湖へ泳ぎに行くと言う嬉しいイベントがありました。
これも、地蔵盆同様町内の老若男女、ガキンチョ・・・
殆どが参加・・・!
バスを連ねてイザ目指すはお隣県・・・滋賀:琵琶湖です。
海水浴と言えば真野です♪
この行事に必ず参加するのは地域担当の小学校の先生~😁
30代と思しき男性教師は・・・もしかして別のお目当てが???
実は、実は、我が町内には評判のとびっきりの美女がいたのです♪
私も憧れたお姉~さま・・・彼女の家は「法衣店」
今もありますね😆
真野水泳場に行くとピチピチ水着・・・一際目立っていました♪
とても優しくてガキ大将の私を可愛がってくれました😅
と、言うことで地区担当の男性教師は3年間この町内担当で・・・やったね♪
同僚からも羨ましがられていたようです・・・「知らんけど~😁」
夏休みが終わるまでに書いておかねば???
昭和の京都、小学生の仕事♪
古い古い手押しポンプでバケツに水を汲み
柄杓で町内中に撒きまわる・・・
夕方の子供の仕事でした!
あっ、もちろん着物姿でありませんよ😁
こうして夕方に水撒きをするといかにも一仕事をした感があって
うん、社会に役立っているんだな~・・・と思ったか?どうか😆
昭和の中頃って何かにつけ町内の団結はしっかりと固いものでした😍
もっと、もっと、団結していたものもあったような気がしていますが
なんせ小学生・・・遊ぶことが優先でした🧐
もうすぐ地蔵盆・・・盆踊り・・・😍
子供の頃、町内で地蔵盆なるものがありました
昼間には「がらんがらんがら~ん♪」と言う鐘の音を合図に
お菓子を配ってくれるんです♪
町内の当番家にお地蔵様を祀ってあり
その前で子供たちがお菓子を食べながらワイワイがやがや・・・♪
こども会議・・・???😆
夜になると演芸大会に、のど自慢大会・・・
狭い町内に櫓を組んで「月が~出た出た~~、月が~出た~ヨイヨイ♪」
浴衣を着て町内中のジジ&ババ・・・オヤジ&オカン・・・
ガキ、ガキ・・・総出で盆踊りです😁
しっかり覚えているのが町内でもイケメンと評判の兄~ちゃんが
「花摘む野辺~に陽は落ちて~♪」って、歌っていましたね😍
小学生たちの出し物に演劇がありました。
何故か、ある年・・・「姥捨て山」をやりました!
女子のリーダーだった私は「捨てられる婆さん役」でした。
髪の毛に歯磨きを塗って白髪に変身???
迫真の演技を披露しました。
息子役は一つ年上の斜向かいのお坊ちゃんでした😁
負んぶされた背中に思いっきりしがみついてやりました♪
大サービスだぜい~😁
実は彼もガキ大将だった私の子分です♪
そんなこんなで町内中が全員参加の地蔵盆でした😍
追記:
引っ越し、捗りません
だってこのくそ暑い日々・・・
ペットカートに荷物を乗せて移動・・・
朝と夜の2回が精いっぱい・・・
まっ、細々とやっております😂
夏が来た~♪
子供時代は夏の夕方は待ちに待った浴衣♪
髪は母が結ってくれる「桃割れ」
桃割れに結った髪に自分で作ったかんざし挿して出来上がり♪
突然大人になった気分・・・小学生のおませな私♪
その頃は背もクラスで後ろから2番・・・
10歳そこそこなのに「16歳?」ってニヤケタおっさんに言われました😁
そんな夏の子供時代!
最近は身近では目にしなくなった「桶屋」さん!
昭和時代・・・私がまだ幼稚園か小学生の頃は近所にあって当たり前の風景だった。
生家のすぐ傍、姉小路の釜座東南角に広い間口を開け放ったままの「桶屋」さんがあった
時々、その前に「飴細工」の屋台が出た
子供心にその職人さんの器用さに尊敬???見とれていた。
今、思い出すと「桶屋」さんの向かいに神明さんと呼んでいた
本名???「神明神社」があった
きっと、その祭礼の時に屋台が出ていたのかと思う。
神明神社の事は、小さかった私はおぼろげでよく覚えていないが、
祭礼の時、稚児行列に参加したらしい。
写真が残っていて私はお稚児さんの装束を着ている。
おかっぱ頭に天冠を乗せられ羽衣のような稚児衣装をまとっている
小学生になると同時にガキ大将だった私も、
ガキ大将になる前の年齢だったので神妙な顔で写っている😆
あの白黒写真は今どこにあるのだろう?
大丸の写真館でイヤイヤ写された写真と共に行方不明!
今更見つかったところでどうでもいいのだけど・・・😁
学校から帰るなりBF達を引き連れて走ります。
目指すは御所(京都御苑)
西洞院を北へ、御池通を東へ、次は烏丸通りを北へまっしぐら・・・
走る走る・・・小学生は元気溌剌、放課後でも有り余る体力😆
今も昔も変わらずある烏丸丸太町交番・・・
ここをチョイ東へ行った初めての御所の入り口・・・
ここが穴場です・・・なんの穴場かって?
ウチら悪ガキの間ではもっぱら「ここ、タヌキの穴やし~♪」って・・・
まことしやかに噂が拡大・・・。
いや、本当だったかもしれません😜
我が家の走り元にある台所の縁の下に少し穴があって
たまにイタチが出入りしてました。
洛中のど真ん中の京町屋にイタチがいたのですから😲
この続きはまた今度😝
おばちゃん、おおきに!
ながい事、おやかまっさんどした
また、よしとうくりゃす♪
・・・京都から「おやかまっさんどした!」・・・
以前、書いていたホームページのタイトルですが・・・
子供の頃、友達の家から帰る時必ず言ったお礼の言葉です
幼稚園か小学生…そんな小さい頃から当たり前に口をついて出た言葉。
今時の京都の子は言わないでしょうね~
こんな鈍臭そうな長ったらしい言葉!
隣も向かいも町内中 呉服関係の仕事…
友達の家もウナギの寝床よろしく奥に長い長い…
一番奥の庭兼仕事場にはシンシ張りの反物が長く伸びている。
わたしの家の中庭には 椿 山茶花 木瓜 南天 等々ままごと材料に事欠かなかった
真ん中にある池には亀や鯉、夜店ですくった金魚やら・・・
水がどんどん減っていく・・・!
わたしは可愛がっていた亀を持って「助けてやらねば」
と、二条城に走った。
あれから数十年・・・会いに行けば顔を出してくれるかな?
ひょこっと首を伸ばして見てくれる亀はきっとわたしの亀だと思う♬
そう、長生きする亀さんはまだまだ若者だろうな~!
まるたけえびすに おしおいけ
(丸竹夷二 押御池)
あねさんろっかく たこにしき
(姉三 六角 蛸錦)
しあやぶったか まつまんごじょう
(四綾 仏高 松万五条)
せったちゃらちゃら うおのたな
(雪駄 ちゃらちゃら 魚の棚)
ろくじょうさんてつ とおりすぎ
(六条 三哲 通りすぎ)
ひっちょうこえれば はっくじょう
(七条 越えれば 八九条)
じゅうじょうとうじで とどめさす
(条東寺で とどめさす)
お馴染み京都東西に走る道を北から南へ歌った通り唄です。
もちろん碁盤の目だから北から南に走る道を東から西へ歌った唄もあります。
それは又の機会にして・・・。
今は分かりませんが昭和時代の京都の子ならたいてい歌えるでしょう
私の小学校は室町錦上がるにありました。
登校の際にはもっぱら新町通を歩きました。
この通りの思い出は数々ありますが・・・二つ強く記憶に残っているのが
吉田義夫さんが住んでいたこと。
狭いろうじ(路地)の奥に家がありました。
東映時代劇のバテレン役者として結構知られていました。
美術大卒業で「絵描きさんなんやしぃ」と母親が言っていたのを覚えています。
その少し南へ行くと「松坂屋」がありました。
と、言っても外商と呉服仕入れのためのお店でした。
勿論小学生の私には、そんな詳しいことはわかりません
ただ友達の家も含めて呉服屋さんが並んでいました
結婚した後に松坂屋にもデパガとして勤めることになるとは・・・。
病院も今ほど多くなかったみたいだし、まして近くに「何科、何科」ってなかったのだろう?
風邪をひけば耳鼻科でも、これって意外や意外…的を得ていたのだ
母親はそうとは知らないままに近いからって・・・
西洞院三条南西角にあった「辻耳鼻科」に連れて行った
ここって今もあるんですよ・・・多分お孫さんの代かも?
で、怪我をしたら?
ある日、友達の家の通り庭を友達を追って走っていた。
突然、友達が通り抜けた戸をバタンと閉めた
あっ、後ろを走っていた私は見事ぶつかって跳ね返され横のガラス窓に直撃
口からだらり血が・・・。
はっ?
何とそこは私が産まれた産婦人科である
新町三条上がる「富田産婦人科」わりと最近まであった
今は他の医療施設になっているようだ・・・。
なんて言ってる私だって大人になるまで知りませんでした。
西洞院の我が家から明倫小学校に登校する時、時々回り道していました
知らないまま「ワコール」の前を通っていたのです。
その頃のワコールと言えば「和江商事」と言っていました。
数人のお針子さんがミシンをガタガタ踏んでいました。
(この辺りの記事は10歳ほど上の我が姉とK子さんに聞いた話です)
その後、我が古巣???「京都高島屋」に女性下着売り場ができ当然出店されました。
見る見るうちに大人気・・・今の「ワコール」へと大成長したのです。
後に某デパートで私と同僚に・・・と言ってもはるか年上でしたが。
K子さんと売り場でいろいろ話しているうちに室町の「和江商事」におられた事、
そして私がすぐそばで暮らし学校が明倫小学校だった事・・・等々で仲良しに!
K子さんの話は興味深い事ばかり・・・。
二十数年経った今でも(←この時点は現在を遡る事三十年余り前の話です)
創業者の塚本幸一さんと数人で同窓会をしていること・・・
あんなに立派になられて大きな会社になっても創業当時のお針子さんを大事にされている
K子さんの話を聴くたびに、やはり偉い人は心根が違うな~とつくづく思いました。
私がワコールの営業さんに頼まれてある時期デパートのワコールコーナーにいた事。
などなど、どこかで繋がるって素敵な縁だな~と心が温かくなりました。
今年は時代祭が行われない
いや、正確には行列が行われない
一之舟入に住んでいた高校生の頃、木屋町を通りました
家を出たすぐの橋上で見る時代祭は初めてでした
小学生の頃は烏丸通を丸太町から四条まで通ったはずです
学校(室町通り)から授業中に烏丸通に連れて行かれました
烏丸通の歩道に座って車道を通る行列を見ていました
あの頃は、まだ今ほど全国には知られていなくて・・・
「京都三大祭り」と言って
「葵祭」「祇園祭」「時代祭」が大イベントでした
因みに日本三大祭と言えば「祇園祭」「天神祭り」「神田祭」ですね。
時代祭の行列の中で一番好きなのは先頭を行く「維新勤王隊」です
右足を開くように斜め右前に出し、左足をそれに揃える・・・
さらに左足を開くように斜め左前に出し、右足をそれに揃える・・・ゆっくり、ゆっくり行進します
この繰り返しに乗って・・・横笛を吹くのです
♪ ぴ~ひゃ~らら~、ぴ~ひゃ~ら、ひゃ~らひゃら~、ひゃ~らひゃらのぴっぴっぴ~ ♪
アハッ (#^^#) 字に書くと、こんなです!
子どものころに 良く口ずさみました
悪がきのわたしは
♪ ぴ~ひゃ~らら~、ぴ~ひゃ~ら、ひゃ~らひゃら~、ひゃ~らひゃらのほっといて~ ♪
なんて・・・(#^^#)
維新勤王隊は元は「山国隊」がモデルです
勇ましさは行列一番・・・
わたしは時代祭最大の見ものだと思っています
ぴ~ひゃ~ら~…と聴こえてきたら
「来はった…来はった…来はったえ~」と大きな声で叫んでしまいます
サブイボが立って思わず奮い立ちます???
今年はコロナのせいで行列は無し…大いに寂しい思いです。