居候🐾チャロとマロンとランとロロととと

ママ上様、ご厄介になりますがよろしくお願いいたしますですぅ♪
マロンは永遠の12歳♪ ランは永遠の11歳♪

京都・ロマンの森

2020年10月11日 | 昭和の京都

 

「京都・ロマンの森」が夕方のニュースで紹介されました

 

 

もしかして?と思ってググってみました

やっぱりね!

 

わたしが十代の頃、バイトしていた「純喫茶 三条ロマン」

ロマンは創業者、今の社長の父上が個人経営で始められた最初のお店です。

その頃、姉妹店には「テラスロマン」と言って

河原町の蛸薬師東に入ったあたりに「三条ロマン」より大きな喫茶店がありました。

 

時々、用事を頼まれて「テラスロマン」に行きましたが

そこには多人数でカッコいい店長やウエイターなど男前さんが何人かいました。

わたしも密かに憧れた男性もいたりなんかして・・・

青春真っただ中・・・キラキラした時代でした。

一度、従業員のリクレーションとかでひらパーに行ったことが・・・

確か その時の集合写真があったはず・・・アルバムを探してみよう

憧れの男前さんも写っているはず

 

あの頃から「テラスロマン」ではケーキなんかも出されてた記憶が・・・

年々、立派なお店に拡大されて・・・嬉しい限りです♪

一度、ケーキを買いに山科まで出かけてみようかな

 

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夏の夜は・・・

2020年09月05日 | 昭和の京都

兼好法師は言いました

「家の作りやうは、夏をむねとすべし」

 

そう、夏が来るたびに思います・・・ああ~こんな家に住みた~い

 

子供のころに住んでいた西洞院の家は、こんなでした。

ふすまを外すとドド~ンと突き抜け・・・。

縁側からは庭が見えて打ち水をすると身も心も涼しくなる

 

夜の帳が下りる頃には木々が緑深く見え、打ち水の水滴がかすかに光る

あの頃は蛍の饗宴も当たり前の光景でした

 

家を突き抜けるように通っていく風・・・

中庭で行水をして縁側の籐の椅子に座る

井戸で冷やしたサイダーを飲む

なんという贅沢か・・・って、子供のわたしには風情なるものは無関係???

 

いま、思い出しても贅沢な夏の家であった???

今一度、命とお金が続くなら住んでみたい・・・

「夏をむねとすべし家に」

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京都高島屋の向かいは・・・

2020年08月29日 | 昭和の京都

京都高島屋に入社した頃、東向かいは「パブ:パルファン」といったかな~???

夜になると、お洒落な若者が集まる場所!

昼間はランチを提供していたので

お昼になると気の合うちょっとヤンチャな同僚と食事に・・・。

昼間からナンパされてもおかしくないような雰囲気だった。

 

隣には「かわべ」さんと言う高島屋御用達の???納品する前の商品預けの店があった

そこでは当時チキンラーメンのみ食べることができた。

卵を落としただけのチキンラーメンを丼に入れて・・・代金は結構とっていた。

 

その後、河原町阪急ができ交差点角地のため店前は絶好の待ち合わせ場所になった♪

1階の住友ビルディング内には銀行があったので度々便利に使わせてもらった

その東隣には喫茶店があって日本で初めてと言う

アイスクリームの天ぷらを出していた(真意のほどは保証せず(^_^メ))

店の前には赤い公衆電話があり、事情があって鮮明に覚えている???

 

その後はマルイに変わったりそれも撤退したりと・・・

昔の面影はどこかへ行ってしまった。

 

阪急ができる前の頃には河原町四条北西角には個人のネクタイ屋さんがあって

次姉がバイトをしていた。

わたしが京高のネクタイ売り場にいたころだ。

あの北西の角地は京都で一番地価の高い所だった。

 

京都高島屋の一角(阪急に渡る交差点前)には

どうしても高島屋に売りたくないと言うお店(尾州屋老舗)があって不思議な光景になっている。

ここの2階に美容室があり、

ちょくちょく有久(ありきゅう;高島屋用語で昼ご飯休憩)を利用して行っていた。

 

あの周辺の事はまだまだ思い出があるが一旦ここまで・・・(主婦もどきの家事の為)

 

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買い物ブギ♬

2020年06月27日 | 昭和の京都

♬ 今日は朝から わたしのお家は てんやわんやの大騒ぎ ♬

♬ 盆と正月一緒に来たよな てんてこまいの忙しさ ♬

 

西洞院の四条上がったところに なかな格式高い料亭がありました

ある日、前を通ったら何やら人だかりがして賑やか?

何?

子供のわたしが人の隙間から覗くと映画の撮影中でした。

大人の会話から笠置シヅ子の撮影らしいのです

後日、買い物ブギーが挿入された映画らしいことを知りました。

 

 

京都と言えどもそうそう撮影に出くわすことはありません。

わたしが出合ったのは山本富士子主演の大映映画「夜の河」

後は将軍塚で撮影中の東映の時代劇・・・くらいです・・・たぶん???

どれも超子供でしたから後で姉に聞いて何の映画か知りました。

 

四条通なんかでは映画スターの雑誌用の撮影とかには結構出くわしましたが・・・

大川橋蔵さんとか伏見扇太郎さん等々・・・

 

「夜の河」は西洞院の家のすぐ近所・・・

姉小路の小川にあった染物屋さんが現場だったと思います。

どうも、その家の姉妹がモデルだとか???

 

で、話は前に戻って西洞院に・・・

四条から蛸薬師までは道幅が広くなっていました

そこに8日だったか???に夜店が出るんです

わたし達は「八日市」と呼んでいました

ベタ焼きが大好きでいつも必ず買っていました。

 

あの頃は沢山の屋台が並んで

娯楽の少ない時代の大きな楽しみ大イベントでした

 

ということで 今回もなんてことはない昭和の思い出でした(^^♪

 

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木屋町二条

2020年06月26日 | 昭和の京都

 

十代半ばに住んでいたのは木屋町押小路・・・今は一之舟入と言った方が分かりやすい・・・

その頃の わたしの行動範囲は北は荒神口あたり、南はせいぜい五条迄、

東は平安神宮、西は烏丸くらい・・・。

 

その範囲の中に度々買い物をしたお店がありました

豚まんを買いに行っていたのですが・・・

そのお店の名前は気にしていませんでした

だから、志津や?王将?無名?・・・わかりません

二条大橋へ出る手前にありました

 

 

 

ある日、買った豚まんの具にブタの毛が入っていました

それから暫くは豚肉を食べられませんでした。

 

大人になって結婚もしていたある日

父親の会社の番頭さんから

「〇〇ちゃん、郵便局からハガキが来てたよ」

と、渡されたハガキには

「貯金が出入金なしで10年経ちます」と、どうするのか問い合わせ?

 

へぇ~、なんという律儀な郵便局やろう🎵

その郵便局は豚まんのお店の斜め向かいにありました

木屋町の二条南東角です

真面目な???わたしが思い付きで貯金をしていたわけです

 

あの辺りもすっかり変わって大岩さん(その昔は豪商門倉了以別邸)は

「お屋敷・高瀬川二条苑」というがんこ寿司の店舗になっているようです。

 

そのころ、青春時代の友達は大阪に多くいました

だから京阪電車の終点、三条を降りて

三条大橋を渡り、木屋町を通って一之舟入まで帰ります

 

そうそう、木屋町三条の北東角に喫茶店があって

そこで初めて「コカ・コーラ」なるものを飲みました

ゲッ、薬臭い!

これがジュース類に属する飲み物?

 

木屋町を北に歩くとギャラリーや個人のお店がチラリホラリ・・・

その中には幕末でかの有名な「幾松」もあります。

 

と、今日はここまで・・・

さて今から主婦もどきのわたしの家事もどき???の始まりです!

 

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タラのテーマ

2020年06月20日 | 昭和の京都

 

言わずと知れた「風と共に去りぬ」のテーマ曲 大好きでした

 

 

それは京都の京劇(今はもうありません)の向かいにあった

「純喫茶三条ロマン」と言うところでバイトをしていた頃の事です

 

その頃はプレスリーの数々の映画や

超話題作「ウエストサイドストーリー」「南太平洋」等‥

同じ映画を何度も何度も観に行っていました

 

ロマンでバイトをしている頃は、店内BGMのためにLPレコードを自分でかけるのです

好きな曲、LPを勝手な選曲で一日中かけます

針を置いた瞬間から心がしびれるような感覚で酔いしれました

 

いま、米国では人種差別とやらで大変

とばっちり???で名作「風と共に去りぬ」が禁止だとか???

 

なんか、良き時代…昭和が懐かしく思い出されます

昭和の京都…今よりもっともっと良き時代でした

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我が母校明倫小学校

2020年05月20日 | 昭和の京都

 

私の母校は京都市立明倫小学校。

室町通りにあり、今は京都芸術センターとかに変わっています。

 

わたしが通学している頃は、すぐそばに父親の会社がありました。

あの辺りは呉服関係のお店がほとんどで父親の会社も生地関係でした。

(父親が亡くなったあと兄が後を継がないということで番頭さんに代替わりしました)

下校時に時たま寄り道してなんと言うこともなくお店の奥で遊んでいました。

 

ある日、バキュームカーが来たのですが・・・

あっ、・・・ビックリしました。

番頭さんのジャンパーを吸い込んだのです。

作業員さんは慌てて引っ張り出し元のハンガーに掛けました。

それを一部始終目撃したわたしは・・・どうしたか?

 

夕方近くになり母親と手をつないで自宅に帰りました・・・

番頭さんには何も言わずに・・・子供のわたしはいい子なのか悪い子なのか???

あなただったら、番頭さんに言ってあげますか?

 

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本能寺の変

2020年05月14日 | 昭和の京都

 

わたしが小学生の頃は西洞院三条と言うところに住んでいました。

仲良しの友達は数軒離れていて小学校が違っていました。

わたしは明倫小学校・・・友達は本能小学校でした。

元々の本能寺があったところです。

 

小学生のわたしがお気に入りの遊び場は

御所や、御池通、六角さん・・・あと単なる生活道路でした

中でも六角通の新町から西洞院迄の坂道が自転車乗りには絶好の場所でした

新町から両手離しで西洞院へ向かって颯爽と走るのです

その頃は車も人通りもほとんどなく安全そのものでしたから・・・。

 

ところで、最近「麒麟がくる」の影響で

本能寺の変が良く取り上げられています

どうして明智光秀が簡単に信長を討てたのか・・・

その一因は坂道にあったとか・・・そうなんです・・・

この自転車乗りの坂道です

まだまだ田舎で家屋もなかった新町からは

手に取るように本能寺が見下ろせていた

 

そして西洞院には川があったらしいのです

わたしの時代には勿論西洞院通りに川はなかったのですが

本能寺の変があったころには川が流れていたそうです

名残りは地下に流れる西洞院川の水・・・

それは染め物には絶好の水らしいです

だから「染物屋」が西洞院通りに多いのです

 

母方の親戚も染物屋さんが数軒あります

ところで有名なのは黒染めの馬場さん・・・

わたしの時代ではまだ無名でしたが・・・

 

番外:(小さな情報)

馬場さんの隣にわたしが通い続けた一文菓子屋(駄菓子屋)さんがあって

向かいには兄たちの贔屓「誉」と言う

(今で言うなら)カフェバーがありました

 

そして宮本武蔵でお馴染みの「吉岡道場」

後に四条西洞院で染物屋として吉岡染、憲法染、憲法小紋で有名です。

(宮本武蔵の時代もすでに染物屋でしたが)

と、話がそれたので元に戻します。

 

と、別に戻すほどの情報でもなく

今やテレビの番組で多くの人が本能寺をご存じなんでしょうが

織田信長が討たれた本能寺は油小路にあったのです

今は京都市役所のそばに変わっていますが・・・

一之舟入に住んでいたころは今の本能寺の中を突っ切って

眼科に通っていました

 (って、なんの情報???まっ、その後縁あって一之舟入に住んだって事!)

 

別段取り上げるほどの情報でも話でもないのですが

良き時代、懐かしき昭和の京都は又暇があれば書きます。

 

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ジャズ喫茶シァンクレール

2018年07月31日 | 昭和の京都


 



 高校生のわたしが喫茶店のアルバイトをしたのはジャズ喫茶「シァンクレール」が初めてだったかな?

 荒神口にあって我が家からは歩いても行ける距離

 でも河原町通りの市電に乗っていたような気もする


 お店のオーナーママは日本ではジャズ界の有名人

 海外アーチストが来られると必ずツーショット写真を撮って

 店内の壁に貼り巡らされていた

 来日したアーチストたちもママのことは頼りになる日本人と信頼していたようだ





 わたしが勤務したフロアは2階でジャズが絶えることなくかかっていた

 少し薄暗いフロアはド近眼のわたしにとっては超苦手の範疇


 暫く勤めた後、突然のように辞めたのは・・・

 この2階の勤務にあたるには階段(梯子のような)を上るのである

 上がったところは厨房???

 床がぽっかり開いて、そこから出入りするのだ


 ある日、わたしはその床が開いていることに気付かず危うく落ちかけたのだ

 その日その時を限りに・・・辞めた!

 今後落ちないと言う保障は何もないから・・・

 怪我のないうちに命のあるうちに???


 後々知ったのだが近くにあった鴨沂高校の学生だったジュリーが来ていたらしい

 勿論その頃はまだ無名であったから逢っていたとしても知る由もない

 むしろピーこと瞳みのるのほうが父親つながりで知っていたのである


 次回は「純喫茶ロマン」

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はだめ、はだめ・・・

2014年10月18日 | 昭和の京都

   

    (画像は記事とは何の関係もありません、ただ今食べたいだけ)



   はだめ、はだめ・・・

   どう言う意味って?

   一つおき ってことやね!


   ご先祖さまから どっぷり京都人の ちょっといけずな京おんな・・・

   そんな母が使っていた言葉が 時々……ほんま急に浮かんでくる


   はだめはだめ ってネットで調べてみたけど出てこない

   奈良人の相方に訊いても知らんと言う




   数年前、京都人と堂々と名乗ってあちらこちらに顔出ししていた人が

   ほっこり を解説していた

   癒されると言う意味で京ことばとして紹介していた

   でも、わたしは違う意味で使ってたんです


   母がしょっちゅう仕事終わりに使ってたんです

   ああ~、ほっこりしたわ~…って! 

   疲れたと言う意味で…仕事が終わって…ああぁ~ほっこりした!


   疑問をそのまま放っておけないわたしは その京ことばを紹介している人に質問しました

   母は、こういう意味で使ってましたが…っと!

   母やわたしが使っている疲れたと言う意味を否定されました


   先日、新聞に載っていたんです

   今、80代90代の京都人が使っていた頃は 疲れたと言う意味で使っていた…と

   いつの間にか癒されると言う意味に使われだし本来の京ことばと違ってきた…と!


   そうなんや~、そんな言葉っていっぱいあるしぃ…

   おばんざい なんて京都人は使ってなかったしぃ…

   でも、今や京ことば…

   昔を引き摺っている京都人としては

   紹介するなら…やっぱり 昔ながらの使い方を紹介してほしいな~

   なんて、最近しょっちゅう思う!


   と、言う事で はだめはだめ は???

   京ことば紹介にも出てこないけど…

   この際 梶子ママにでも聞いてみるか♪



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秋いずこ!

2013年11月14日 | 昭和の京都


   ほったらかし状態のこのブログ・・・


   でも、主は元気どすえ~


   


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計画停電

2012年07月04日 | 昭和の京都



もしかしたら計画停電があるかも?????
昨日、関電からのお知らせハガキがきました
で、それによると我が家は○○ーDグループらしい

ところが借りているマンションの方には来ないから関電のHPで調べてみました
そしたらなんと…マンションの方は





歩いて3分ほどしか離れていないのに…
ラッキ~って喜んでしまって…なんかアホかいな???
ビーカーの蛙のように知らず知らず関電の手の内にはめられていく???

昭和20~30年代には停電なんて日常茶飯事だったのにな~
便利に慣れた現在を見直す良いチャンスかも…!




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向こう十軒両隣♪

2012年05月22日 | 昭和の京都


 

わたしの住む地域は仲良し地域
特に我が班十軒余りは特別良好♪

先日の土曜日には班でお食事会があった
例年ならバーベキュー大会なのだが
結構準備やなんか大変なので今年は手軽にお弁当を頼んでワイワイガヤガヤ!

我が家の路地辺りは関係の無い車や人は入ってこないから天国だ
そこへテーブルや椅子を持ち寄って車座になり宴会だ
昼ごはんを兼ねて夕方までお菓子ボリボリ、ジュースゴクゴク
ハイ、おっちゃんたちは麦酒グイグイ♪

話題は地域の情報から政治経済、果ては人生相談…
これで自分の住んでいる地域の事が過去現在未来…分かるのだ♪
で、今回は「皆で積み立てして旅行に行こう」と決まった!

欠席だった人にも班長さんからアンケートをとるそうだ
…しかし、しかし…
反対はしにくいよね~
いくら仲良し班だとは言っても泊りがけでとなると…

で、なにがどうなったのやら我が家の相方が幹事にされた???
本決まりではないからこの先オジャンになるかもしれないが…
ちょっと楽しそうだけど難しそうだし…

ノリノリのおばちゃまたちは楽しみルンルン???
その相方さんもつられてルンルン???

わたしは病気の関係で宴会にも欠席だし
もちろん旅行も欠席だけど…
なんと仲の良い地域だろうとマジで感心???

昭和の京都は町内が当たり前にこんなだったな~っと思い出す♪


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ミゼット

2012年05月08日 | 昭和の京都




ウチの後に写っているのは懐かしい ミゼット!
亡き兄が初めて乗った車どす。
大村昆ちゃんがCMをしていたなんてこと知っている人は
昭和バリバリ人間どすな~♪

ウチの髪型もその頃流行の盛り髪???
頭でっかちで…

そうそう、ちなみに後に写ってる橋が
いまや名所になった一之舟入の橋どす!

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明倫小学校

2012年03月29日 | 昭和の京都




わたしが通っていた小学校は明倫小学校です。
我が家は町内の中ほどにあったので隣の子もそのまた隣の子も明倫小学校。
でも、町内端っこ近くの子の隣の子は本能小学校でした。

烏丸、四条、堀川、御池の四角い地域の中に
明倫小学校と本能小学校があったのです。
どちらも廃校になりました。

我が明倫小学校は今は京都芸術センターとかって市民の施設になって
建物こそ残ってはいますが中は綺麗にリメイクされています。
講堂や能舞台など、ところどころはそのままのようですが外観も塗りなおされて
どこかとってつけたような浮き立った建物になってしまいました。

校門を入ってすぐ右手にあった「ざぼん」の樹は健在なのでしょうか?
学校全体で編集されていた文集は「ざぼん」と言う題でした
自分の詩や作文が載ることは滅多にありませんが、
それでも載った作文は今も覚えています。

我が母校の大先輩は「南極大陸」で
香川照之さんが演じた星野英太郎のモデル西堀栄三郎さんです。
まだ、わたしが在校中だった頃、講演に来てくださいました。
南極越冬隊がなんなのかも知らない、
どんな大変なことかも知らない
そんな子供の頃でした。


本能小学校はと言うと…
織田信長が暗殺された本能寺があった場所です。
今ある本能寺は新しく出来た偽物???
昔の本能寺は油小路蛸薬師下がるにありました。




ちなみに母の母校は梅屋小学校…ここも廃校になりました。
母はモンペでラジオ体操をしていたと笑いながらよく話してくれました♪

京都の中心部、中京区に住んで楽しい思い出がいっぱい♪
姉は楽しくない思い出もあるようですが
わたしはどんな嫌なことも楽しかったと思えてしまうお気楽者です

昭和時代の中京区はとても落ち着いたノンビリした町でした
今はマンションなんかが増えていって面影がどんどん変わっていっていますが
わたしが覚えている限りの昭和京都を忘れないで懐かしむつもりです。


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