ある牧師から

ハンドルネームは「司祭」です。

イザヤ書35章

2021年08月12日 | 聖書

教会の聖書一日一章、今日はイザヤ書35章です。全節を読みます。


1荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野ばらの花を一面に咲かせよ。
2花を咲かせ
大いに喜んで、声をあげよ。
砂漠はレバノンの栄光を与えられ
カルメルとシャロンの輝きに飾られる。
人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
3弱った手に力を込め
よろめく膝を強くせよ。
4心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。
見よ、あなたたちの神を。
敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
神は来て、あなたたちを救われる。」
5そのとき、見えない人の目が開き
聞こえない人の耳が開く。
6そのとき
歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。
7熱した砂地は湖となり
乾いた地は水の湧くところとなる。
山犬がうずくまるところは
葦やパピルスの茂るところとなる。
8そこに大路が敷かれる。
その道は聖なる道と呼ばれ
汚れた者がその道を通ることはない。
主御自身がその民に先立って歩まれ
愚か者がそこに迷い入ることはない。
9そこに、獅子はおらず
獣が上って来て襲いかかることもない。
解き放たれた人々がそこを進み
10主に贖われた人々は帰って来る。
とこしえの喜びを先頭に立てて
喜び歌いつつシオンに帰り着く。
喜びと楽しみが彼らを迎え
嘆きと悲しみは逃げ去る。


この章は第二イザヤ(40~55章)と通ずる箇所で、捕囚からの帰還の喜びを歌っています。躍動感がありますね。讃美歌21・173番になっている箇所です。

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イザヤ書34章5~6節

2021年08月11日 | 聖書

教会の聖書日課は、今日はイザヤ書34章です。5節と6節を記します。


5 天において、わが剣は血に浸されている。見よ、剣はエドムの上に下る。絶滅に定められた民を裁くために。6 まことに、主の剣は血にまみれ、脂肪を滴らす。小羊と雄山羊の血にまみれ、雄羊の腎臓の脂肪を滴らす。主がボツラでいけにえを屠り、エドムの地で大いなる殺戮をなさるからだ。


エドムは、創世記のエソウの末裔です。旧約聖書ではしばしば罰の対象となっています。特にボツラという町は赤いものと表現されます。なぜなら、ボツラがワインの産地だからです。それは、エソウが「赤い者」であったこととどう関係するのか?

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イザヤ書26章12節

2021年08月03日 | 聖書

教会の聖書日課、今日はイザヤ書26章です。12節を記します。


主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を、成し遂げてくださるのはあなたです。


イザヤはこのように語りましたが、平和の王としてイエス・キリストが来られました。私たちはキリストにおいて神に近いものとされています。それゆえにすべての人が近い者とされ、そこに平和が与えられています。

しかし現実の世は争いが絶えません。それゆえに私たちもまた「主よ、平和をわたしたちにお授けください」と祈る者とされます。すべてを成し遂げてくださるのは神です。

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コリントの信徒への手紙二1章17~20節

2021年07月30日 | 聖書

日曜日の説教に向けて黙想をしています。


17 このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって「然り、然り」が同時に「否、否」となるのでしょうか。18 神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。19 わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。20 神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。


神様の約束は「しかり」となります。途上で時間がかかって約束が果たされていないように思えても、必ず「しかり」となるのです。旧約聖書の中に疫病の話が多くあるのは、それらの疫病が必ず収束したということです。それは疫病の収束の約束でもあります。

コロナが収束するということを神様が約束して下さっている、そしてそれは「しかり」となるということを覚えたいものです。




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哀歌5章16,21節

2021年07月29日 | 聖書

昨日の祈祷会の聖書箇所は哀歌5章でした。16節と21節を記します。


16 冠は頭から落ちた。いかに災いなことか。わたしたちは罪を犯したのだ。
21 主よ、御もとに立ち帰らせてください、わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして、昔のようにしてください。


多くの民がバビロンに連れ去られた後のエルサレムの嘆きの歌である哀歌ですが、1章から嘆きが続いていましたが、最後のこのところで悔い改めの言葉が見られます。嘆いていたが、捕囚になってしまったのは自分たちが悪かったのだ。神様立ち返らせてください。こう祈っています。

この「神への立ち返り」こそが、キリスト者にとって最も大事なことです。

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