コラム第49回を掲載していただきました。今回はエフェソ書4章1~6節です。私はここにも「パウロ、フィレモン、オネシモ」というつながりを見るのです。
以下のリンクでお読み下さい。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/30044/20211007/paul-philemon-onesimus-49.htm
コラム第47回を掲載していただきました。
今回は、エフェソ書3章8節から13節を読みます。
8 この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、9 すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。10 こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、11 これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。12 わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。13 だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。
「秘められた計画が、どのように実現されるのか」について
前回、「秘められた計画」がエフェソ書執筆よりは少し前に、使徒や預言者に啓示されたことをお伝えしました。今回も「秘められた計画」が大事なことになりますが、今回読む箇所の9節には、「秘められた計画が、どのように実現されるのか」(新共同訳)とあります。この原文「ティス ヘー オイコノミア トゥー ミューステリウー / τίς ἡ οἰκονομία τοῦ μυστηρίου」という言葉は、少々翻訳が難しいと思います。そのため、幾つかの翻訳を並置してみたいと思います。
以下はリンクでお読み下さい。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/29921/20210902/paul-philemon-onesimus-47.htm
コラム第46回を掲載していただきました。
パウロとフィレモンとオネシモ(46)「秘められた計画」
―使徒と預言者たちに啓示されたもの―
前回、「エフェソ書は教会論を述べている」とお伝えしました。教会を表現する場合、1章22~23節においては、「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」と、キリストの体とされていました。今回の箇所では、教会を建物に例えています。
2章20節前半に、教会は「使徒や預言者たちという土台の上に建てられています」とあります。この場合の使徒というのは誰を指しているのでしょうか。マッテヤを含む12使徒やパウロのことを指しているのかもしれません。しかし、注解書などを見てみますと、第1コリント書12章28節の「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師(後略)」やエフェソ書のこの節を根拠に、使徒とは「最初期の教会における最も重要な職務の担い手」などとされていて、ここではむしろこの言葉の定義付けがなされているように思えます。
預言者というのは、旧約聖書に登場する預言者ではなく、最初期の教会において、霊に満たされて福音を語っていた人たちとすることができましょう。そして、その使徒と預言者たちが教会の土台となっているとされています。
続けて、「そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり」と記されています。かなめ石というのは、「アーチ型の玄関のてっぺんにある石」とも説明されますが、私は思い切ってロシアの教会から説明を試みたいと思います。ロシアに行きますと、ロシア正教会の会堂はどこも、尖塔に「タマネギ」と呼ばれるものを付けています。写真は、2007年にロシアのハバロフスクを訪れたときに撮影したウスペンスキー教会です。てっぺんに三つと手前に一つ、十字架の下に付いているのが通称「タマネギ」です。
以下は
https://www.christiantoday.co.jp/articles/29868/20210819/paul-philemon-onesimus-46.htm
でお読み下さい。
コラム第45回を掲載していただきました。
コロサイ書とエフェソ書を読んでいくと、構造がよく似ていることを感じます。2つの書の構造を表にしてみたいと思います。
コロサイ書 | エフェソ書 | |
---|---|---|
書き出し | 1:1~29 | 1:1~23 |
本文への導入 | 2:1~5 | 2:1~10 |
本文 | 2:6~23 | 2:11~3:21 |
実践的な勧告 | 3:1~17 | 4:1~5:20 |
家庭訓 | 3:18~4:1 | 5:21~6:9 |
最後の勧告 | 4:2~6 | 6:10~20 |
結びの言葉 | 4:7~18 | 6:21~24 |
このように大変よく似た構造になっています。エフェソ書はコロサイ書を手元に置いて書かれたといわれていますが、まさにそうされていたからこそ、良く似た構造になったのだと思います。
今回からエフェソ書の本文に入ります。ここでは「教会とキリストの奥義」ということが論じられ(2:11~3:13)、祈りと頌栄によって文が結ばれています(3:14~21)。今回は「教会」について記されている2章11~18節を読むことにいたします。
続きは以下からお読み下さい。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/29815/20210805/paul-philemon-onesimus-45.htm
コラム第43回を掲載していただきました。エフェソ書は「教会の頭であるキリスト」ということを強調していますが、それと旧約聖書の礼拝所(荒野の幕屋、神殿、ケバル川河畔)の栄光を繋ぎ、「教会のかしらであるキリストの栄光への希望」という観点で執筆させていただきました。
今回はエフェソ書1章15~23節を読みます。これだけ長い文章ですが、原文では19節の終わりに読点が一度打たれているだけです。内容的には、ひとまとまりになっているとしてよいと思います。
15 こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、16 祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、18 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。19 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。20 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、21 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。22 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
エフェソ書1章3~14節は「頌栄」でした。1章2節と15節の間に頌栄が挿入されているのです。したがって、15節で書簡が改まって書き出されていると捉えてよいと思います。
以下はリンクでお読み下さい。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/29671/20210701/paul-philemon-onesimus-43.htm