「件p表現の命名」
現代美術という名称は甚だ短絡的な命名である。
今という時代に生きて表現している作家達は例外なく「現代の表現」であり、その表現内容が如何なるものであれ「現代美術」に属する。
今日の状況を自覚・認識し得た者のみが「現代美術家」あるいは「造形美術家」等々、いかにも今風の意匠を纏い、自分だけは現代に即した表現をしている、といった錯覚に陥っている。
なかでも特に滑稽なのは「概念美術・環境美術」と称する作家の群れである。彼等は単に今日を生きているというだけで過去の作品や世界観を否定する。その彼等自身は抽象表現が何故生じたかの考察抜きで時代の風潮に依存している。また、たちの悪いことに、情報的知識の継ぎ接ぎの貧相な自称批評家達に媚を売っている作家が少なくない。
近代精神である相対的視点による件p表現の考察は足場を失い方向を失い、出口なし状態であり、この出口なしの状態そのものが表現の基盤である、との大いなる錯覚混迷を「現代美術」と認識し、称している。これは悲惨というも滑稽な光景である。
相対的意識そのものは「偏見を消し去る」ための一視点にすぎない。抽象表現の作家達が禅や東洋の思想に惹かれたのは足場無き足場をどうやって維持するか?との自己矛盾を打破せんがためであった。だが、その彼らとて真に自覚していた訳ではない。
近代人の悲劇と云われるものの決着は未だついてはいない。多少鋭敏な感受性や直感力を具えていた者のみがこの「問い」に関してジタバタして斃死していった。この事情が時と共に情報的知となり、今日の作家もどき、評論家もどきが時代に合わせて乱用している。
真に今日に生きるものが成さねばならぬ表現とは「創造的能動的意志」を核とした広義の意味での実践的表現なのである。
自分自身をも単なる一素材として大いなる生成活動の一環として組み込む事、これ以外に今日・現代の表現は存しない。
個々人が大いなる一環としての個々人である、ということを知らしめる未知なる創造表現を目指さなければ、今後の件p表現は衰退と不毛の無用皮相なる趣向物と堕すであろう。
現代美術という名称は甚だ短絡的な命名である。
今という時代に生きて表現している作家達は例外なく「現代の表現」であり、その表現内容が如何なるものであれ「現代美術」に属する。
今日の状況を自覚・認識し得た者のみが「現代美術家」あるいは「造形美術家」等々、いかにも今風の意匠を纏い、自分だけは現代に即した表現をしている、といった錯覚に陥っている。
なかでも特に滑稽なのは「概念美術・環境美術」と称する作家の群れである。彼等は単に今日を生きているというだけで過去の作品や世界観を否定する。その彼等自身は抽象表現が何故生じたかの考察抜きで時代の風潮に依存している。また、たちの悪いことに、情報的知識の継ぎ接ぎの貧相な自称批評家達に媚を売っている作家が少なくない。
近代精神である相対的視点による件p表現の考察は足場を失い方向を失い、出口なし状態であり、この出口なしの状態そのものが表現の基盤である、との大いなる錯覚混迷を「現代美術」と認識し、称している。これは悲惨というも滑稽な光景である。
相対的意識そのものは「偏見を消し去る」ための一視点にすぎない。抽象表現の作家達が禅や東洋の思想に惹かれたのは足場無き足場をどうやって維持するか?との自己矛盾を打破せんがためであった。だが、その彼らとて真に自覚していた訳ではない。
近代人の悲劇と云われるものの決着は未だついてはいない。多少鋭敏な感受性や直感力を具えていた者のみがこの「問い」に関してジタバタして斃死していった。この事情が時と共に情報的知となり、今日の作家もどき、評論家もどきが時代に合わせて乱用している。
真に今日に生きるものが成さねばならぬ表現とは「創造的能動的意志」を核とした広義の意味での実践的表現なのである。
自分自身をも単なる一素材として大いなる生成活動の一環として組み込む事、これ以外に今日・現代の表現は存しない。
個々人が大いなる一環としての個々人である、ということを知らしめる未知なる創造表現を目指さなければ、今後の件p表現は衰退と不毛の無用皮相なる趣向物と堕すであろう。
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