常々”歎異抄”を読んでみたいと思いながら…。五木寛之の私訳、易しい言葉で誰にでも理解できるように訳した歎異抄を読んだ。無私無欲で”ナムアミダブツ”と念仏を唱えれば救われると言う。阿弥陀仏はわが名を呼ぶすべての人々をもれなく救おうと誓いを立てた特別な仏だそう。二人の著者は聖書と歎異抄を、キリストと親鸞を比較して似たような所が多々あると言う。善人ですら救われるのだから、増してや悪人をや…と親鸞はいい、キリストは私が来たのは罪人のため…と歎異抄と聖書は酷似している。アッシジの聖フランチェスコ(本田氏はフランチェスコ会の司祭)は己を騙せない人だったし親鸞の姿勢もぶれなかった。しかも親鸞とフランチェスコは同時代に生きているから、法然や親鸞の思想の中でキリスト教に非常に類似するもの、共通するものがあっても不思議ではないと。説いていることはシンプルで自分を偽らない、騙さないというのが二人の生き方だったそうです。100匹の羊の内1匹がいなくなったら羊飼いは当然その一匹を探しに行くべき…これが神の国の価値観であると言う。それは当然私の価値観でもあり、弱い立場の人や差別をされている人の側に立つ、夫がそうだったように私もぶれない。白州正子が言っていたが、私も何処にでも神は存在しその環境にある神を信じる。アッシジの大聖堂にはジョットの描いた聖フランチェスコの生涯の絵があると言います。いつの日かアッシジには是非行きたい。酷暑の中涼風、一服の書物であった。